恋なんてしていない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む⑫
この部分だけ読めばたいていの人は私がわざと間違えて引用したと勘違いするだろう。
では何故「恋」なのか?
ではなくて、
では何故「神」なのか?
であるべきではなかろうか。この話の切り替えはかなり不自然なもので学生の論文なら必ずチェックが入るだろう。
この問題は「恋」に関するひとしきりの議論の後こう片づけられる。
いや片づけられてはいない。話がそらされているだけだ。この比較は、
平野はこうした独特の天皇観について『文化防衛論』に見えるもの、または少年時代から憧憬し続けてきた「到達不可能なもの」という抽象的な
イメージに近いものとして、やはり三島由紀夫自身に引き寄せようとするが、そもそも三島由紀夫の少年時代に天皇は「天ちゃん」だったのだ。二・二六事件の将校たちの言い分も『文化防衛論』とはかなりの隔たりがある。
極めてシンプルに表現すれば『英霊の声』に現れるさまざまな声は、三島由紀夫自身の声ではない。彼らの語る天皇は三島由紀夫が経験したことのないところから語られる天皇なのだから、当然そこには隔たりがある。三島自身は二・二六事件の将校が憑依したという芝居を打ち、何か『英霊の声』が神秘的な体験でもあったかのように宣伝しているが、そんなものは『仮面の告白』を式場に送り付けたのと同じやり口である。
とにかく売れたい。人気者でありたい。注目されたいのだ。
三島由紀夫は『鏡子の家』の失敗の後、「真面目に本当のことを書いただけでは誰も喜ばない」と思い知った。更にいくら内容が面白くても現実と無関係な小説は褒められないと悟った。
三島の言う「仮構の現実化」「現実と非現実の相克」は逆説である。三島は仮構は現実化しなければならないと考えた。しかし神風は吹かなかった。『英霊の声』が問うたのは何故神風が吹かなかったのかという問題でもないし、何故神風も吹かせられないものが天皇のふりをしているのかという問題ではない。
まさしくその時代時代の国民が必死に作り出そうとした天皇というものが『英霊の声』にはあった。それはただ天皇が不在であるという確認ではなかった。
ここで最初に、
では何故「恋」なのか?
と書かれたところで見えていた平野啓一郎の欺瞞について確認しておきたい。
平野は三島の文体に森鴎外の影響があることを二度ほど指摘していた。森鴎外は平野啓一郎自身が馴染んだ作家でもある。つまり森鴎外は平野と三島にとっては共通した馴染の作家である。
ならば平野は三島由紀夫が『かのように』を読んでいる筈がないとでもいうのであろうか。
森鴎外は『かのように』において「今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい」と当たり前のことを当たり前に語る。坂口安吾ほどの得意もなく、なんとなれば突き刺すような気合もない。
どのように読もうがただ文体の技術のみが入ってきて内容が入ってこないということはあり得ないと思うのだが、そうではないのだろうか。
鴎外と三島が天皇の位置づけに関しては真逆の時代にいたことを鑑みれば、鴎外は正直に語っており、三島由紀夫は明らかに無理を言っている。英霊たちの語っていることは鴎外の時代の天皇の位置がさらに神格化された時代の言葉で「神話が歴史でない」かどうかが曖昧な時代であったのだ。
三島由紀夫にはその全体の歴史が見えていた。「神話が歴史でない」ことなど言われなくても解っていた。ただ三島由紀夫はどうも科学的であろうとしてなお神秘思想に惹かれやすかった。空飛ぶ円盤やこっくりさんへの興味はお芝居では無かろう。平田篤胤などというオカルトな国学に惹かれたのも正直なところであろう。
ただし恐らく磯部の霊は三島には憑依しなかっただろう。
むしろ三島由紀夫は西郷さんか磯部浅一に憑依してもらいたかった。そういうことがありうるのではないかと考えながらやはりそうした奇蹟は起きなかったので、自分の中には全くないもの、磯部浅一や蓮田善明の脳にダイブして天皇を語ってみたというところであろう。
平野は当然触れるべき森鴎外の天皇論をスルーして、神話を歴史にすりかえようとする三島の狙いを見落とした。
平野は「『英霊の声』論」の結びにこう書いている。
繰り返し述べているように三島の死の時点で天皇は〈絶対者〉ではなく、ありうべき天皇は無理やりにでも創り上げなくてはならないものでありながらまだ実在していなかった。
ないものと一体化はできない。
そこはそれ、いかにオカルト好きの三島であってもロジカルに考えればそれは無理な話である。大高慢である自分が「絶対者に拒否されて」生首にならなくてはならない悲劇を演じたのであって、〈絶対者〉との一体化してしまっては批評もできない。絶対者はそもそも存在しないから拒否しかできない。そこが解ったうえでの無理な蛸芝居なのだ。
冷静に現実的に考えよう。
誰であれ三島が望んだような天皇になれますか?
そして一人の作家の観念に沿って天皇が自らを規定できますか?
そんなものは誰がどう考えたって最初から無理なのだ。
では何故三島由紀夫はそんな駄々をこねているのか?
天皇が目的ではなく手段だからでしょう。
少なくともイギリスのロイヤルファミリー的な天皇は違うぞという批判というものは一意見としては承るけれどもだからと言って何かこう国の形を暴力的な示威行為でもってなんとかしようとするのは無理がありますよと言うことは解っていながら、神風連や西郷さんのように已むに已まれず純粋な行為として死ぬのは格好いいでしょう、作家として美しい死でしょうという自覚があればこそ、三島由紀夫は二つ目の遺書で富士の見える場所に自分のブロンズ像を立てよと書いたわけです。
この「已むに已まれず純粋な行為として死ぬのは格好いいでしょう」が「唐獅子牡丹」であり、ヒロイズムなわけですよ。ここにおいて三島由紀夫の天皇論というのはあくまでも「無理」という括弧に括られていて、そもそも何とかすべきものですらないわけです。二・二六事件で心配になった昭和天皇は「朕である」と赤坂署に電話して状況を聴いて、それから自ら一個師団を率いて鎮圧するとまで言ったわけでしょう。そういう歴史を全部理解したうえで今更「批評」なんかやっていられますか。
磯部のものであろうと三島のものであろうと「獄中記」なんか天皇陛下は読みやしませんよ。ただ死んで驚かすことができるだけですよ。それでもメッセージなんか誰にも伝わっていないでしょう。「批評」も括弧に括られた「無理」なんですよ。
目的は死だ、と言わないために『盗賊』を読み飛ばしたのならそれは欺瞞だ。
では何故「恋」なのか?
こうして話頭を転じてしまう欺瞞、よれよれのロジックからは何も生まれない。
「ここまできて三島がなにもやらなかったら、おれが三島を殺る」
森田必勝
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