芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑲兼夏目漱石の『こころ』をどう読むか480着物という概念がなければ全裸もない
これは素朴なトートロジーの確認のような話でありながら、文学的には必ずしもそうではない。文学においては出来る出来ないで裁かれない曖昧な領域が残されることがありうるからだ。なんなら文学においてはどんなことでもありうる。
ここで河童たちは着物というものを知らずにいる、とされていて河童たちは眼鏡はかけていたとしてもいかにも全裸であるかのように書かれてることから、この国の「特別保護住民」たる人間の「僕」(或精神病院の患者、――第二十三号)にも衣服が与えられる筈がないとまずは考えられる。
従って、こう類推される。
・「僕」は河童たちと生活していくうちに自然と全裸になり
・人間の国から河童の国に帰る際も全裸だったのではないか
この場面、第二十三号が巡査につかまり、病院に入れられる明確な理由が示されていない。だから第二十三号が全裸だったとは言えない。しかし全裸でもない限り、いきなり巡査につかまり、病院に入れられる理由が解らない。つまり理屈の上ではおそらく全裸なのだが、全裸であることの確認が行われていないので全裸であるとは言い切れないのだ。
全裸そのものにはさして狂気性があるわけではない。このくらい寒がりでも捕まるかもしれない。
しかしこういうものを見ると、そもそもあらゆるすべての上着を「シャツ」と単一の名前で呼んでいる世界があるとしても、その世界で「シャツ」以外の上着を着ることができないという理屈はあり得ない過程に基づく無い話であることが解る。現実は哲学とは異なる。現実では必ず「シャツとは何か」という「シャツ論争」起こる。
ここでも「私」は理論上は全裸である。しかし全裸と書かれているわけではない。水着を持たなくて、一切を脱ぎ棄てるのだから全裸の筈なのだ。しかし常識が蓋をして全裸の画を結ばない。これは丁度昔の映画が巧みなアングルで股間を隠すようなもので、完全なる全裸とは言えない。つまり「一切」という言葉が現実的ではないのだ。「あらゆる」とか「すべての」という言葉は現実では誇張表現である。
何から何までが「一切」なのかという定義のない現実社会においては、年中無休の店が年末年始には休むことがありうるのだ。
もしも着物という概念がなくなると、全裸もなくなる。全裸というと何か着物を脱いだかのような理屈だが生まれた時は皆裸なのだ。そういう意味では一切を脱ぎ棄てたくらいで全裸呼ばわりもどうかという話にもなる。
ここでは、
・芥川が猿股を脱いだ
・芥川が佐藤の体を誉めた
……とあるので二人とも全裸のようであるが、ただそれだけではない。芥川は佐藤の裸を見る為に自分の猿股を貸したかのようにも読めるのだ。ここに親切を見出すのも猥褻を持ち出すのも読み手次第だ。
そしてこの後のことが書いていないので、芥川が全裸で泳いだかどうかが誰にも分らない。
これはまさに『こころ』状態なのである。あるいは漱石は、芥川と佐藤春夫の未来を知っていて、『こころ』を書いたのではないかと思えるほどだ。文学の世界では何でもありうるので、けしてないことではない。
しかし最も奇妙なのは洋服を着ると猿股を用いないという佐藤春夫の言い分である。そこにどんな目的があるのかは解らない。着物を着る時にパンツをはかないというのは解るが、洋服を着ると猿股を用いないとはどんな理屈か。これはもしかすると詩人佐藤春夫が言葉に囚われ、猿股を履いたら洋装ではない、と無意識にそうしていたのかもしれない。
昭和十三年九月に「下着としてのバンツ」なるものが登場している。しかし相変わらず男性の下着の呼称は猿股であり、昭和二十年代にようやくパンツとも呼ばれ始める。
佐藤春夫はパンツなら洋装でも履いたのではなかろうか。関係ないが猿股以外の下着には褌もある。現実の世界にはいろんな下着があるものなのだ。三島由紀夫は洋装でも褌を締めていた。
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