米舂
岩波はこの「米舂」に注解をつけて、
……とする。これはかなり独特の解釈ではなかろうか。
ここでは当時の女性が「東西両国を通じて一種の装飾品」であり、「米舂にもなれん志願兵にもなれない」と言われているのであって、それは知恵があるからでもなく、力が足りないからでも無かろう。そもそも「米舂」に「力だけがあるもの」という意味はない。
後にこのように「米を舂くこと」≠「知恵がないこと」のイメージは完全否定されている。
通しで読んで、それから注解しない?
したくない?
通しで読みたくない?
読み直したくない?
本が嫌い?
甲割り
岩波はこの「甲割り」に注解をつけて、
……とする。
いやいやいや。「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは甲割と称えて鉄扇とはまるで別物で……」という文字列は、この宇宙で私にだけ見えているのだろうか。
まるで別物とは同じではないということだ。つまり「甲割り」≠「鉄扇」ということだ。
「甲割り」には実際に刀で兜を割ること、あるいは兜を割る刀、割った刀の意味もある。ここで持ち出されているのは鉄扇用の平たく短い鉄の棒、つまり十手に近いものではなかっただろうか。
三島由紀夫が東大全共闘と公開討論会に挑んだ際には、みっともないことにならないようにと鉄扇を忍ばせていたという話だ。それはまさに、
こんなものだろう。
こんなにすかすかしていては兜を割ることは到底できないので、もっと芯ががっちりしていたものがここで言われている「甲割り」であろう。
ここの「鉄扇のこと」って学生が書いてきたら説教されてもおかしくないところ。
大人なら認知症が疑われる。
しかも個人のミスではないからね。
何人もが関わっていることだから、集団認知症ということになる。
そうでなければ、この宇宙で私一人にだけ夏目漱石作品が読めているということになる。
正解はどっちなの?
ビードロや
岩波はこの「ビードロや」に注解をつけて、
……とする。
しかし国立国会図書館デジタルライブラリーに「ビードロ屋」の文字は一度しか現れず、「ビードロ屋」の意味の「ビードロや」の文字も漱石のものしか見つからない。他は羅列の「や」、まあ並立助詞の「や」である。
従って「明治になってもそのようにいう人が少なくなかった。」という注解は甚だ怪しい。逆に明治期、硝子屋という言葉は自然に見られる。
また「室町時代末から江戸時代まで一般に用いられ」というのもいかがなものか。ポルトガルとの接触は確かに室町時代末期である。与謝蕪村が江戸中期、もし「室町時代末から江戸時代まで一般に用いられ」ていたなら、江戸初期の俳人にビードロの句があってもよさそうなものだ。
この字引ではビードロに玻璃、つまり水晶の文字が当てられている。玻璃は宝石である。一般に用いられるものではなかろう。
[余談]
主要な辞書類に「玉人」を「至って身分の軽いものだ」というニュアンスはない。