山田朗の『昭和天皇の戦争認識』をどう読むか⑧ 結果がすべてだ
戦争に終わりはないとつくづく思う。日清日露戦争から始まり、日本は中国・ロシアと引き続き緊張関係にある。昭和天皇はソ連との緊張関係を強く意識していたようで、ソ連を仮想敵国として、吉田は呑気なことを言っているが、虎視眈々たるソ連がいる、と田島にこぼしていた。実際千島は返還されず、沖縄は返還された。ロシアとの戦争が終わっていない以上、昭和天皇の時代感覚は正常である。
しかしどうも戦争に関する天皇の「真意」はそれが詳らかになればなるほど、伏せられねばならなかったものなのではないかと山田朗は推測している。1953年5月21日、6月22日、23日の天皇は張作霖爆死事件に遡り、天皇は天皇から見た歴史の口述を始める。1954年以降も4月21日「満州事変勃発当時の事を中心に」、5月11日には「犬養内閣当時に関して」口述が続けられる。
山田はさらりと書いているが、これは恐ろしいことだ。
この見立ては実にフラットではあるが、少し違うのではないか。要するに一部削除や訂正では何ともならない程度に、天皇の「真意」には角度がついていたということなのではないか。何を言っても日本人以外の全ての関係者を納得させることはできないだろうが、天皇以外の誰一人理解できない「元首象徴だらうネー」的な独自の見解であったからこそすべてが伏せられたのではなかろうか。
実際ここまで『昭和天皇の戦争認識 :『拝謁記』を中心に』には本当に驚かされてきた。広島の原爆被害についての「やむを得ない」発言にも驚いたが、「認証しないといふ事がある」発言はたまげた。この角度で張作霖爆死事件や満州事変を語らせれば、あれは〇〇のアイデアで……と言い出しかねないのではないかと思う。
学習院初等科から東宮御学問所に進む経緯に関しては帝王学を学ぶためと伝えられている。それ以前のことだから朝敵である義経を偉いと思っていても不思議はない?
そしてここで「顔が変わった問題」が気になってくる。もしかすると昭和天皇は明治天皇と会ったことがないのではないか?
どうも顔が安定しないのは秩父宮も同じである。秩父宮は終戦時には陸軍少将、高松宮は海軍大佐、三笠宮は陸軍少佐。
天皇は、戦中は繰り返し三人の皇弟たちから突き上げを喰らい、戦後は彼らから退位論が持ち出されないかと神経をとがらせていたようだ。
ここで山田朗『昭和天皇の戦争認識 :『拝謁記』を中心に 』を離れて、気持ちの悪い事実を確認して今日はいったん休憩する。
秩父宮雍仁親王 子女なし
高松宮宣仁親王 子女なし
三笠宮崇仁親王 息子三人は死亡
『昭和天皇の戦争認識 :『拝謁記』を中心に 』の第一部そのものは田島が昭和天皇に対して、直宮や旧皇族に厳しすぎると諫言するくだりで終わっている。
そのことがどういう意味を持つのかずっと考えている。
しかしその結果が今の皇室なのでは?
とは言いすぎか。
[余談]
隠されてもいないのに調べてみると恐ろしいことがある。子孫問題なんかずっと遡ると恐ろしいよ。
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