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芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑱ 電話帳でもどうぞ 

 

それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――
彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。

(芥川龍之介『河童』)

 実は私がやっていることもこれと同じことなのではないかと疑う。近代文学が私にしか読むことのできないものであり、これまで誰一人読んでこなかったにもかかわらず、現にここにあり、私だけが読むことができる事、その如何にもいかがわしいからくりは、実はこの電話帳だったのではなかろうか。

 つまり夏目漱石や芥川龍之介はひたすら電話帳を書き続けていて、それが頭の可笑しい人間には小説に見えるというわけだ。

 そうでなければ誰も近代文学を読むことができないのはおかしい。

 これを書いたのはもう二年も前だが、

 この本を書いてからはもう四年も経とうとしている。そしてこれまで四年に渡ってこのnoteには日々、近代文学に関する正しい読みを書いて来た。

 本当だろうか?

 今朝、何を書いたかと云えば、

 これか。

そしてこの確認で明確になったことは、『行人』の結末は一郎の死後にあり、『こころ』と同じ構造を持っているということだ。
 今の二郎は反省し、兄に対する尊敬を取り戻している。『行人』はそんな過去と未来とをつなぎ合わせる物語だ。

 なるほど。確かに岩波書店の注解者の理解していない「語っている今」を正確に捉え、物語構造を具体的に捉えている。今、確認した。間違いない。もしも私が精神病院にいるのでなければ、この記事は正しい。『定本漱石全集』の注解は改められるべきである。

 しかしこのことは既にはっきりとした限界も示している。

 第二十三号が現実を巧みに解釈して、都合のいい妄想を作り出しているのと同じように、私が見ているものはnoteの自分の記事ではなく、エロ動画サイトのおねだりコメントなのかも知れないのだ。

 あるいは冒頭この病室を訪ねて来た「僕」こそがありもしない現実を見てきたように語り、その中でいかにも第二十三号を実在の狂人に見せかけようと電話帳などという小細工を仕掛けただけかもしれないのだ。

 本当は病室には黒百合の花束があるのに、「僕」には見えないと言っているだけなのかもしれないのだ。

 あれ、今可笑しなことを書かなかったか?

 なか卯の親子丼が税込み400円で食べられるだって?

 そんなことは書いていない。しかし書いていないとは限らない。書いているのに、私だけには読めないのかもしれない。


 うむ。確かに490円だ。

 そもそもこの『河童』という小説は芥川龍之介の書いた小説なのだから、「本当は病室には黒百合の花束があるのに」なんてことはあるわけはないのだ。第二十三号も河童もいないのだ。

 さらに疑えば芥川龍之介の『河童』を読んだと言える人間が一人もいないのだとしたら、芥川龍之介などという作家は存在せず、私は『文豪ストレイドッグス』に触発されて、存在しえない作家の有りもしない小説の読解を二百回も記事にしたのではなかろうか。

 どう考えてもこの世には私一人しか存在しえない。

 そんな私が何故悪党呼ばわりされねばならぬのか、さっぱり分からない。寧ろ私こそがこう言う権利があるのではなかろうか。

「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、残酷な、私の本を買わない虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」

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