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芥川龍之介と動物的エネルギイ 抜けば祟る刀を得たり暮れの秋

 唯今の小生に欲しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。(昭和二年三月二十八日、書簡)

 芥川龍之介から斎藤茂吉に宛てた手紙に表れるこの「動物的エネルギイ」は、どうにかして芥川を死の門から遠ざける筈のものだった。しかしか程に希求される程度に枯れていたものであり、『羅生門』では確かに下人の中に見られたものである。しかし、それはそもそも芥川自身の中に備わっていたものだったのだろうか。

 その声に応じて金甲神が、雲気と共に空中から、舞下ろうと致しましたのと、下にいた摩利信乃法師が、十文字の護符を額に当てながら、何やら鋭い声で叫びましたのとが、全く同時でございます。この拍子に瞬く間、虹のような光があって空へ昇ったと見えましたが、金甲神の姿は跡もなく消え失せて、その代りに僧都の水晶の念珠が、まん中から二つに切れると、珠はさながら霰のように、戞然と四方へ飛び散りました。
「御坊の手なみはすでに見えた。金剛邪禅の法を修したとは、とりも直さず御坊の事じゃ。」
 勝ち誇ったあの沙門は、思わずどっと鬨をつくった人々の声を圧しながら、高らかにこう罵りました。その声を浴びた横川の僧都が、どんなに御悄れなすったか、それは別段とり立てて申すまでもございますまい。もしもあの時御弟子たちが、先を争いながら進みよって、介抱しなかったと致しましたら、恐らく満足には元の廊へも帰られなかった事でございましょう。その間に摩利信乃法師は、いよいよ誇らしげに胸を反らせて、
「横川の僧都は、今天が下に法誉無上の大和尚と承わったが、この法師の眼から見れば、天上皇帝の照覧を昏まし奉って、妄りに鬼神を使役する、云おうようない火宅僧じゃ。されば仏菩薩は妖魔の類、釈教は堕獄の業因と申したが、摩利信乃法師一人の誤りか。さもあらばあれ、まだこの上にもわが摩利の法門へ帰依しょうと思立たれずば、元より僧俗の嫌いはない。何人となりともこの場において、天上皇帝の御威徳を目のあたりに試みられい。」と、八方を睨みながら申しました。
 その時、また東の廊に当って、
「応う。」と、涼しく答えますと、御装束の姿もあたりを払って、悠然と御庭へ御下りになりましたのは、別人でもない堀川の若殿様でございます。(芥川龍之介『邪宗門』)

 これは殆ど漫画の世界観である。ここには芥川の生活もなく、芥川の精神もない。寧ろ芥川でないところがあり、それでいて確かに小説になっている。芥川は自身の生活や精神を捨てて、徹底した仮構の世界に言葉を切り結んだのだ。こんな芥川の精進について『よみがえる芥川龍之介』で関口安義氏はこう解釈している。

 豊島与志雄の「恩人」が、春の日の憂愁を孤独な人生の問題に重ねていたのに対し、芥川の「秋」は、秋という寂しい季節を背景に、主人公の人生への〈諦め〉の意識が強く盛り込まれている。それは文壇登場以来、絶えず創作に〈精進〉し、〈人工の翼〉で高く飛翔しようとした芥川の挫折の吐息ともとれる。芥川は前の年に「芸術その他」を書いた後、弟子にあたる佐佐木茂索宛ての便りに「何としても精進せぬと内の寂しさをどうする事もできぬ」(一九一九・一一・二三付)と書きつけていた。行き詰まった作風を打開するするには〈精進〉以外ないことを芥川は知っていた。(『よみがえる芥川龍之介』)

 こう捉えてみて改めて夏目漱石の責任を問いたくもなる。『鼻』が気に入った、これは事実、そこで褒めるのは勝手だ。しかし小説が内容の高さはさておき、量り売りされるものであることを知らない訳ではなかろうに、お墨付きを与えてしまった。ここには責任が生じる。長編小説を連作しなければ飯が食えぬことくらい解っていた筈である。そして『老年』の器用さも『鼻』の達観も、精進の賜物だと見抜いていた筈である。無論芥川は食えぬから死んだのではない。負けたから死んだのだ。何に負けたのか、何と戦ったのか、それは定かではない。ただ何かと戦い続け、負けた事のみが明かである。

 日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで漕ぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉、佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村については、項をあらためて書くつもり。)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。(太宰治『もの思う葦』)

 山盛りで行かなければ食えないのが小説家である。太宰治も苦労して長いものを書いた。『右大臣実朝』などお勉強して書いた。芥川は山盛りを嫌った。その事を太宰はここで弁護しているようだが、芥川は論争に負けた訳でもなく、山盛りに負けた訳でもないのではないか。私は『羅生門』の下人がずっと芥川のことを見張っていたのではないかと考えている。それ故芥川は逆説に拘り、理屈で揚げ足を取られない様に気を配ったのではなかったのかと。

 将来どんな作品を出すかといふ事に対しては、恐らく、誰でも確かな答へを与へることは出来ないだらうと思ふ。小説などといふものは、他の事業とは違つて、プログラムを作つて、取りかかる訣にはゆかない。併し、僕は今後、ますます自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、本格小説、私小説、歴史小説、花柳小説、俳句、詩、和歌等、等と、その外知つてるものを教へてくれれば、なんでもかきたいと思つてゐる。
 壺や皿や古画等などを愛玩して時間が余れば、昔の文学者や画家の評論も試みたいし、盛んに他の人と論戦もやつて見たいと思つてゐる。
 斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに将来有望である。
(大正十四年十二月)(芥川龍之介『風変りな作品に就いて』)

 三島由紀夫はプログラムを作って小説を書いた。散々調べて取材して、その上で構想を練った。全く行き当たりばったりがないとは思わないが、ある程度図面を引いて小説を書いた。芥川はそうではなかった。今、この『風変りな作品に就いて』を読むと妙に悲しくなるのは何故だろうか。

「支那游記」一巻は畢竟天の僕に恵んだ(或は僕に災いした)Journalist 的才能の産物である。僕は大阪毎日新聞社の命を受け、大正十年三月下旬から同年七月上旬に至る一百二十余日の間に上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津等を遍歴した。それから日本へ帰った後、「上海游記」や「江南游記」を一日に一回ずつ執筆した。「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一回ずつ執筆しかけた未成品である。「北京日記抄」は必しも一日に一回ずつ書いた訣ではない。が、何でも全体を二日ばかりに書いたと覚えている。「雑信一束」は画端書えはがきに書いたのを大抵はそのまま収めることにした。しかし僕のジャアナリスト的才能はこれ等の通信にも電光のように、――少くとも芝居の電光のように閃めいていることは確である。
大正十四年十月(芥川龍之介『「支那游記」自序』)

 いたく景気の良い序ではあるが読んでいてけして陽気になれない。この直後、芥川龍之介という作家が崩れていくことを知っているからだ。「僕の母は狂人だった。」で始まる『点鬼簿』、犬が笑う『鵠沼雑記』、『玄鶴山房』、『河童』、『蜃気楼』、『歯車』、『文芸的な、余りに文芸的な』、『或阿呆の一生』、『続西方の人』…。何故だろうか太宰の『グッド・バイ』は大いに笑えるのに、この辺りからなかなか読むのがつらくなる。無論そこには博識と機智と有り余る文学的センスが見られるのだ。芥川は書けなくなったのではない。ただ〈人工の翼〉あるいは動物的エネルギイというものが自分には元々なく、ただ実母の愛を知らず牛乳で育てられた顔の長い痩せこけた男が自分であることに改めて気がついたのではなかろうか。

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。(芥川龍之介『或阿呆の一生』)

 乾いた剥製の白鳥は飛べない。最初から伏することのなかった龍は不可思議の力で天高く飛翔した。そして空中飛行機のように墜落した。

抜けば祟る刀を得たり暮れの秋  夏目漱石(明治三十二年)











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