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『從軍行』について あるいはイカの皮を剥いてみれば
小説など好きに読めばいいとは言いながら、最低でもここまでは読めていなければならないという最低ラインがあるからこそ、国語テストなるものが成り立つはずなのに、教科書にも採用されている夏目漱石の『こころ』について、著名な文学者、作家、評論家たちがことごとく読み誤っている、というのが私のこのnoteの中心的な主張だ。
では詩ならどうか。小説だからこそ正されるべきであり、詩ならどうでもいいのか。この問題をもう一度考えてみたい。国語教材としては三好達治の「土」が有名だろう。
土
三好達治
蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ
この詩にはさして面白くもない「教え方」のようなものが用意されている。比喩とイメージの結びつきを教えようとしている。「そう見える」という感覚を伝えようとする。(ちなみにこの詩はつまらないが、三好達治のウイキペディアは惚けていて面白い。)では、これではどうか。
ウワキはハミガキ
ウワバミはウロコ
太陽が落ちて
太陽の世界が始った
テッポーは戸袋
ヒョータンはキンチャク
太陽が上って
夜の世界が始った
オハグロは妖怪
下痢はトブクロ
レイメイと日暮が直径を描いて
ダダの世界が始った
(それを釈迦(しゃか)が眺めて
それをキリストが感心する)(中原中也「ダダ音楽の歌詞」)
この詩に対して「既成の秩序や常識に対する否定、攻撃、破壊を表現しています」などとダダイズムのイデオロギーだけを押し付けてしまうと、この詩そのものの意味が消失してしまう。わずかな韻、言葉遊び、逆説と矛盾、ひたすら真面目になるまいという意思が見えるも、深堀りできる要素はない。ではこの詩はどうか。
一
吾に讎あり、艨艟吼ゆる、
讎はゆるすな、男兒の意氣。
吾に讎あり、貔貅群がる、
讎は逃すな、勇士の膽。
色は濃き血か、扶桑の旗は、
讎を照さず、殺氣こめて。
二
天子の命ぞ、吾讎撃つは、
臣子の分ぞ、遠く赴く。
百里を行けど、敢て歸らず、
千里二千里、勝つことを期す。
粲たる七斗は、御空のあなた、
傲る吾讎、北方にあり。
三
天に誓へば、岩をも透す、
聞くや三尺、鞘走る音。
寒光熱して、吹くは碧血、
骨を掠めて、戞として鳴る。
折れぬ此太刀、讎を斬る太刀、
のり飮む太刀か、血に渇く太刀。
四
空を拍つ浪、浪消す烟、
腥さき世に、あるは幻影。
さと閃めくは、罪の稻妻、
暗く搖くは、呪ひの信旗。
深し死の影、我を包みて、
寒し血の雨、我に濺ぐ。
五
殷たる砲聲、神代に響きて、
萬古の雪を、今捲き落す。
鬼とも見えて、焔吐くべく、
劍に倚りて、眥裂けば、
胡山のふゞき、黒き方より、
銕騎十萬、として來る。
六
見よ兵等、われの心は、
猛き心ぞ、蹄|を薙ぎて。
聞けや殿原、これの命は、
棄てぬ命ぞ、彈丸を潛りて。
天上天下、敵あらばあれ、
敵ある方に、向ふ武士。
七
戰やまん、吾武揚らん、
傲る吾讎、茲に亡びん。
東海日出で、高く昇らん、
天下明か、春風吹かん。
瑞穗の國に、瑞穗の國を、
守る神あり、八百萬神。
(夏目漱石『從軍行』)
一見これは日露戦争に向けて兵士を鼓舞する詩のように思える。『趣味の遺伝』とは真逆の姿勢である。保身のために書いたのか、それとも大真面目なのか、一瞬判断に迷う。しかし「大和魂の歌」を書いた漱石がそう簡単に魂を売る筈もない。
「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」
「起し得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類いか」(夏目漱石『吾輩は猫である』)
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」とはまるで稲垣足穂の『一千一秒物語』である。これは見事な詩になっている。では『從軍行』はどうかといえば、いかにも真面目につまらなく、月並みな言葉を並べて最後に、「瑞穗の國に、瑞穗の國を、守る神あり、八百萬神。」と「殷たる砲聲、神代に響きて、」と書きながら最後には現人神を否定して笑っている。よく読むと、
聞けや殿原、これの命は、
棄てぬ命ぞ、彈丸を潛りて。
天上天下、敵あらばあれ、
敵ある方に、向ふ武士。
もおかしい。
傲る吾讎、北方にあり。
と、敵は北方にいることになっているのに、
天上天下、敵あらばあれ、
敵ある方に、向ふ武士。
ということは殿上人が敵なら武士はそちらに向かいますよと、妙な理屈になってしまっている。そう気が付いてみると、
空を拍つ浪、浪消す烟、
腥さき世に、あるは幻影。
さと閃めくは、罪の稻妻、
暗く搖くは、呪ひの信旗。
も可笑しい。神代が腥さき世で幻影ではいけないだろう。罪の稻妻とは誰の罪で、暗く搖く呪ひの信旗とはどちらの国旗なのだろう。よくよく考えてみれば『從軍行』は唐代の詩人・王昌齢の「從軍行」からきており、「但龍城の飛將をして在らしめば胡馬をして陰山を度らしめず」と立派な将軍がいないことを嘆いた詩のパロディではないかという気がしてくる。これはやや乱暴な解釈ながら、ここまで考えたところで最初の「日露戦争に向けて兵士を鼓舞する詩」という印象がすっかり消えてしまっている。イデオロギーの皮、イカの皮を向いてみれば、漢詩の達人の崩し、破調、ダダイズムが見えてこないだろうか。さて、この感覚がどこまでが確かなことなのか、まだ検証が必要だろう。詩においても、詩だから読み飛ばしでいいという訳ではなく、まさに読み直しが必要なのだと私は考えている。
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