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芥川龍之介の『彼 第二』をどう読むか① best friendのすることではない

 この作品もまた「実在の人物に関するエッセイ」とは読まない方がいいだろう。そしてまたその名が明確に告げられないことから、モデルが実在することもあまり気にする必要はないだろう。「彼」が誰であれ、この作品の中にしか「彼」はいない。それに『彼』にしても『彼 第二』にしても、既にこの世にはない旧友の思い出を懐かしがるような話ではないことは既に見て来た通りだ。

 しかし『彼』にしても『彼 第二』にしても「僕」の死んでしまった旧友の話であるという括りでさえ本来は芥川が拒んでいたもの(初出の添え書きによる)なのだが、『彼』にしても『彼 第二』にしても「僕」の死んでしまった旧友の話であると括らざるを得ないように執筆時期とタイトルとを近接させているのも芥川なのだ。そういう意味では『彼』にしても『彼 第二』にしても何者にもなり得なかった挫折者の死の話として眺めることはできるかもしれない。

「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子、兄、独身者、愛蘭土人、……それから気質きしつ上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」
 僕等はいつか笑いながら、椅子を押しのけて立ち上っていた。
「それから彼女には情人だろう。」
「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」
 夜更の往来は靄と云うよりも瘴気に近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色に見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股にアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。
「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯を調べて貰った話は?」
「上海でかい?」
「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」
 彼は僕の顔を覗きこむようにし、何か皮肉に微笑していた。
「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」
「勿論オペラ役者にでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」

(芥川龍之介『彼 第二』)

 何者にもなれなかった男が酔っぱらって大きな事を云うのは珍しいことではない。「今からじゃどうにもならない」という「彼」は「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ」とまで言ってみる。これくらい空威張りが出来れば大したものだが、さらにそんな男こそがは珍しくはない。大した男はありふれかえっている。まず大抵の男は何者にもなれずに死んでいくのだから。

 何者にもなれなかった男が酔っぱらって大きな事を云うのはそもそも何者かになれるのではないかと期待した結果であり、ここで「男」「男」とまるで男尊女卑のような、あるいは男根ロゴス主義のような筋を運んでいるのは、これが「雄」の話だからだ。

彼は僕よりも三割がた雄の特性を具えていた。

(芥川龍之介『彼 第二』)


 芥川はここでも「そうではない僕」を演出しようとする。お前こそが神になれると信じていたにょろにょろ君じゃないかという突っ込みを乞うように、「彼」を「雄」にしてしまう。

「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。――誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれって。」
「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を銭ずくでやめさせるのは悪趣味じゃないか?」
「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を金ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」
 グラノフォンはちょうどこの時に仕合せとぱったり音を絶たってしまった。が、たちまち鳥打帽をかぶった、学生らしい男が一人、白銅を入れに立って行った。すると彼は腰を擡げるが早いか、ダム何なんとか言いながら、クルウェットスタンドを投げつけようとした。
「よせよ。そんな莫迦なことをするのは。」
 僕は彼を引きずるようにし、粉雪のふる往来へ出ることにした。

(芥川龍之介『彼 第二』)

 雄の特徴の一つは攻撃性である。人間の雄は雌よりも攻撃的である。しかしここで「彼」の攻撃性は「僕」を普通らしく見せるための飾りである。

「僕はきのう本国の政府へ従軍したいと云う電報を打ったんだよ。」
「それで?」
「まだ何なんとも返事は来ない。」

(芥川龍之介『彼 第二』)

 こんな「彼」の雄の部分に関して、やはり「僕」の目線は革命家を見るように生温かい。 

僕が最後に彼に会ったのは上海シャンハイのあるカッフェだった。(彼はそれから半年ほど後、天然痘に罹って死んでしまった。)

(芥川龍之介『彼 第二』)

 これは結びの一行ではない。つまり『彼 第二』は何者にもなり得なかった挫折者の死の話としては閉じていないのだ。その後に「今からじゃどうにもならない」という台詞がある。彼の死はいかにもついでのように確固書きの短い説明の中に押し込められる。

 結びを見れば、『彼 第二』が「彼」の追憶の物語ではなく、夢の話だと分かる。

 しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠ってしまった。すると、――おのずから目を醒ました。夜はまだ明け切らずにいるのであろう。風呂敷に包んだ電燈は薄暗い光を落している。僕は床の上に腹這いになり、妙な興奮を鎮めるために「敷島」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を醒ましているのはどうも無気味でならなかった。

(芥川龍之介『彼 第二』)

 夢の中で眠ってしまった「僕」が目を醒ますのが不気味……もう「彼」の記憶はどこかに行っている。

「荷風堂は可笑いな。森先生ともあらうものが。」――夢の中の僕はそんな事も思つた。それぎり夢はさめてしまつた。

(芥川龍之介『本の事』)

 実際に「彼」が「I detest Bernard Shaw.」と言ったのか、芥川龍之介が本当にそんな夢を見たのかという事実はどうでもいい。『本の事』は夢で見た「無い本」への関心で閉じているのに対して、『彼 第二』は自分が夢の中で眠ったのに目が覚めたことに関心が移っており、夢で見た「彼」のことはどうでもよくなっている。「僕」はこうして二度「彼」を突き放した。冒頭では best friendである筈の男の名前を無くし、結びでは彼の夢さえ無視している。

 best friendのすることではない。

 ここには微妙な距離がある。



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