芥川龍之介の『彼 第二』をどう読むか① best friendのすることではない
この作品もまた「実在の人物に関するエッセイ」とは読まない方がいいだろう。そしてまたその名が明確に告げられないことから、モデルが実在することもあまり気にする必要はないだろう。「彼」が誰であれ、この作品の中にしか「彼」はいない。それに『彼』にしても『彼 第二』にしても、既にこの世にはない旧友の思い出を懐かしがるような話ではないことは既に見て来た通りだ。
しかし『彼』にしても『彼 第二』にしても「僕」の死んでしまった旧友の話であるという括りでさえ本来は芥川が拒んでいたもの(初出の添え書きによる)なのだが、『彼』にしても『彼 第二』にしても「僕」の死んでしまった旧友の話であると括らざるを得ないように執筆時期とタイトルとを近接させているのも芥川なのだ。そういう意味では『彼』にしても『彼 第二』にしても何者にもなり得なかった挫折者の死の話として眺めることはできるかもしれない。
何者にもなれなかった男が酔っぱらって大きな事を云うのは珍しいことではない。「今からじゃどうにもならない」という「彼」は「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ」とまで言ってみる。これくらい空威張りが出来れば大したものだが、さらにそんな男こそがは珍しくはない。大した男はありふれかえっている。まず大抵の男は何者にもなれずに死んでいくのだから。
何者にもなれなかった男が酔っぱらって大きな事を云うのはそもそも何者かになれるのではないかと期待した結果であり、ここで「男」「男」とまるで男尊女卑のような、あるいは男根ロゴス主義のような筋を運んでいるのは、これが「雄」の話だからだ。
芥川はここでも「そうではない僕」を演出しようとする。お前こそが神になれると信じていたにょろにょろ君じゃないかという突っ込みを乞うように、「彼」を「雄」にしてしまう。
雄の特徴の一つは攻撃性である。人間の雄は雌よりも攻撃的である。しかしここで「彼」の攻撃性は「僕」を普通らしく見せるための飾りである。
こんな「彼」の雄の部分に関して、やはり「僕」の目線は革命家を見るように生温かい。
これは結びの一行ではない。つまり『彼 第二』は何者にもなり得なかった挫折者の死の話としては閉じていないのだ。その後に「今からじゃどうにもならない」という台詞がある。彼の死はいかにもついでのように確固書きの短い説明の中に押し込められる。
結びを見れば、『彼 第二』が「彼」の追憶の物語ではなく、夢の話だと分かる。
夢の中で眠ってしまった「僕」が目を醒ますのが不気味……もう「彼」の記憶はどこかに行っている。
実際に「彼」が「I detest Bernard Shaw.」と言ったのか、芥川龍之介が本当にそんな夢を見たのかという事実はどうでもいい。『本の事』は夢で見た「無い本」への関心で閉じているのに対して、『彼 第二』は自分が夢の中で眠ったのに目が覚めたことに関心が移っており、夢で見た「彼」のことはどうでもよくなっている。「僕」はこうして二度「彼」を突き放した。冒頭では best friendである筈の男の名前を無くし、結びでは彼の夢さえ無視している。
best friendのすることではない。
ここには微妙な距離がある。
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