芥川の得意とするところは「逆張り」あるいは「逆説」である。普通言われていることに対して「実はそうではないのだ」と逆のことを言い出す。これは『鼻』をはじめとしたストーリーそのものに対しても言えることだし、何なら小さなパーツや概念に対しても「違う、違う、そうじゃない」とやってくる。
この『或日の大石内蔵助』ではそのままストーリーと落ちが「逆張り」あるいは「逆説」となる。まず敵討ちで名を上げた大石内蔵助が、江戸中で仇討ちの真似事が流行っている話を聞かされて面白くない。
大石内蔵助は①自分たちは小心者だ、②自分の親族にも変心したものがいる、として謙遜したつもりが話は背盟の徒を罵る方向に進んで行く。
大石内蔵助には自分たちが忠義の士と持ち上げられることも、また背盟の徒が犬畜生とされることにも不快である。「我々と彼等との差は、存外大きなものではない」とさえ考えている。しかし大石内蔵助は黙った。先ほどは反論したのが謙遜と取られてあらぬ話の流れとなった。だから黙っていたのが今度はまた謙遜と取られて話は大石内蔵助が世間を欺くためにわざと遊び惚けていたことに向けられていく。
反論しても謙遜ととられ、黙っていても謙遜ととられ、褒められたくもないのに褒められどうしである。仕方がないので「いや、それほど何も、大した事ではございません。」としぶしぶ答えてみれば、やはり褒められる。
こうなるとまた謙遜をするわけにもいかなくなる。しかし考えていたことはこんなことである。
大石内蔵助は天下を欺くために遊んだのではなく、時には敵討ちのことなど忘れて楽しんでいたのだ。これが逆説①。そして人間にはそういうところがあるもので「我々と彼等との差は、存外大きなものではない」、忠義の士であれ背盟の徒であれ、その人間の中にはそう単純でもないものがあるのだというのが逆説②。
大石内蔵助は「心の底へしみ透って来る寂しさ」を覚える。
面白そうな話というものは単純に作られたもので逆説②の複雑さに堪えられない。大石内蔵助は「青空に象嵌をしたような、堅く冷たい花を仰」ぐ。いったこの世のどこに堅い梅の花など存在するものだろうか。そのように見えることが逆説③。
逆説①②に気が付いていた人は、逆説③の遊びに気が付いただろうか。「青空に象嵌をしたような」とは作り物めいたという様子である。梅の花は作り物めいて見えた。しかしこうとも言えようか。「堅く冷たい花」とは大石内蔵助が見たままである。この梅の花が本当は柔かいなどとどのようにして確かめられようか。歌舞伎の中の大石内蔵助も象嵌である。「堅く冷たい花」である。
かんがりと ほのぼのと
道理こそ たしかに
似より おなじような
今日はこの三つの言葉だけ覚えて帰ってください。