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芥川龍之介の俳句をどう読むか189 ここまでのまとめのようなもの①

 これまで芥川の句を百以上読んできて思うのは、

・目の前のものをそのまま詠もうという考えはさらさらない
・漢詩、和歌の要素をふんだんに取り入れている
・「知的なひねり」を加えている句が少なくない

 ……といったことが言える。

菊の酒酌むや白衣は王摩詰

 これなどは詠んだ季節はあっているものの、目の前に王摩詰がいるわけもないので、詠み方としてはいかにも和歌的なものだ。

 ただこの句の解釈をどかんと間違えている人はそういないので、くどくど説明するまでもなかったかもしれない。その一方でくどくど説明することに大いに意義があったと思うのは、この句だ。

蜃気楼見んとや手長人こぞる

 この句にはネット上で正しい解釈が認められず、飯田蛇笏も「蜃気楼」と「手長人」の関係をつかみかねていることから、今更私がくどくど説明することに大いに意義があったと言えよう。

 この句は蜃気楼の意味が解らないと解らない句だ。

 知的なひねりと云えば、この句だろう。

水洟や鼻の先だけ暮れ残る

 よくぞこの句に「自嘲」という文字を添えたなというところ。「自嘲」と書きながら芥川は「なかなか寄り目に気がつく者はいないだろうな」と考えていたはず。気が付いてみると「あっ」と思うが、気がついてみて改めて、いい加減に鑑賞されているなと思わざるを得ない。

 この句が解らなければ、

われとわが睫毛見てあり暮るる春

 ここで半開きの眼にもが気がつかなかっただろう。

水洟や鼻の先だけ暮れ残る

 これだと子供のことかと解釈される余地があるので「わが睫毛見て」とより厳格に詠んできたあたりは意識的な細工である。

 まだ誰も取り上げてくれないが、

若葉に掘る石油井戸なり

 この句に対する解釈は革命的なものではなかろうか。

 この句単独では何とも意味がつかめないところ、続けて詠まれた句で羅紗綿を買うというストーリーが出来上がる。同様の仕掛けが、

浅草の雨夜明かりや雁の棹

雁啼くや廓裏畠栗熟れて

 といった句に見られる。女を買う様子を句に読む、という解釈自体をアカデミックなところでは嫌うかもしれないが、羅紗綿や廓という言葉が存在した以上、時代の風俗そのものをなきものにはできない。

三四人だんびら磨ぐや梅雨入空

 こうした句の読みもいい加減になされてきたようだ。この「梅雨入空」の読みが解らなければ意味が解らない句なのに、この句もまた意味が解らないまま放置されていたようだ。

井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨

 この句は『鉄斎 : 随筆 其他』を読み井月と下島勲との関係を理解していないと理解できない句だ。

黒ばえやたそがるゝ矢帆赤かりし

 これもまた江口渙を知らないと解らない句である。

 そういう人が右クリック一つで正解に辿り着けるようにできた意義は大きいと思う。


 また解釈として万全というわけではないが、手掛かりをつかんだ例としてこの句がある。

炊事場の飯の香に笹鳴ける聞きしか

 この「笹鳴ける」の解釈は新しいもので大いに検討される意義があると確信している。

元日や手を洗ひをる夕ごころ

 この句は室生犀星に対する悪戯である。それをしみじみと読んでしまうことは間違いとは言えないが、やはり悪戯として読むことにより味わいがある。

木がらしや東京の日のありどころ

 この句は蕪村ではなく虚子との関係でみていかねばならないこと、

木がらしや目刺にのこる海のいろ

 この句も虚子がパクったかどうか、みていかねばならないだろう。

風落ちて曇り立ちけり星月夜

 この句も一通りでない解釈をしてみる必要がある。

更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁

 泥鰌汁と泥鰌鍋は別物だ。

春雨の中や雪おく甲斐の山

 この句は見たままではなく空想である。

凧三角、四角、六角、空、硝子

 これもお正月の景色ではない。

 大体芥川の句が写実的と書いているような人の鑑賞は参考にしない方がいい。四割くらい間違っている。とにかく芥川の俳句を読むためには自分の感覚だけに頼らないことだ。それは小説でも同じ事。


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