三島由紀夫は作家と云うものは作品の原因ではなく結果だと語る。書いたものを引き受けなければならないから作家なのだ。あるいは三島は芸術と生活の法則を完全に切り分けた。芸術の結果が生活にある必然を命じればそれは運命であり、運命を感じていない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに気味が悪いと。
いわれていますよ。ナメクジかナマコみたいに気味が悪いんですって。「ふーん」のみなさん。オルカン投資で儲かったとか、早くFIREしたいとツイートしているみなさん。それは生活ですよ。ナメクジでもナマコでも生活は出来ます。
はい。
反論をどうぞ。
遠いんかい。
でしょうよでしょうよ。むしろそんな表面的なところではなく、運命なんて言うくらいだから、思想的には漱石に近付いていたんじゃないの?
そうか、そう考えるのか。しかし「選択と自由意志の問題」というモチーフがあることは認めるんだな。それは『明暗』のメインテーマなんだけれど。
太宰か。
[付記]
作家のエレガントさとかチャームの中には、矛盾したところというか理屈を超えてくるところというのがあるように思う。三島の『金閣寺』で言えば、
この「有為子は留守だった」というところ。これは全然明晰でも何でもないわけです。「何でいると思うとんねん」と常識的にはなる訳です。普通に考えると頭がおかしいわけです。二つの世界の間をふわふわ漂っている感覚です。鴎外には無くて、漱石に少しあり、芥川にはあった感覚ですね。村上春樹はずっとこれをやっていますね。ナメクジかナマコには解らない感覚だと思います。