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読み誤る漱石論者たち阿刀田高② 三四郎の髪の長さはどれくらい?

 夏目漱石作品の中でも『坊っちゃん』『三四郎』『それから』は謎だらけの作品だ。一度さらっと読んで解るものではない。

 それにしても熊本から東京までは遠かった。車内そのものが、三四郎にとって新しい世界だったろう。二人ずつ向かい合って座る三等車のシート。(阿刀田高『漱石を知っていますか』新潮社、2017年)

 この書きようからすると阿刀田高は他人の解釈は参考にしていないようだ。だからこそ『虞美人草』の藤尾の死に関しては惑わされずに済んだのかもしれないが、ここではやはり書いていないことを付け足してしまっている。まず三四郎の里は北九州寄りの福岡で、熊本からはかなり距離がある。「国を立つまぎわまでは、お光さんは、うるさい女であった。そばを離れるのが大いにありがたかった」とあるので、一旦熊本の寮から帰省後、福岡から立ったと考えるべきではなかろうか。また二人ずつ向かい合って座る三等車のシートに三四郎と向かい合わせにじいさんと九州色の女が並んで座っていると読んだようだが、弁当箱に当りに行く女の動きから、三四郎と女は向い合わせの席ではなく、三四郎が後ろの席の女をちらちら見ていたのではないかと思われる。この指摘には諸説あるも、三四郎の座高と座席の背もたれの高さが計算できないことから、もう解かれえない部分かもしれない。
 阿刀田高はこの女を三十年輩と読む。これも書かれていないことだ。しかし宿帳に三四郎が「同県同郡同村同姓花二十三年」と書くので、三十年輩とは誤読であろう。三四郎にももう少し若く見えていた筈だ。
 そして阿刀田高のあらすじでは野々宮の探し物には触れられない。

 野々宮君はしばらく池の水をながめていたが、右の手をポケットへ入れて何か捜しだした。ポケットから半分封筒がはみ出している。その上に書いてある字が女の手跡らしい。野々宮君は思う物を捜しあてなかったとみえて、もとのとおりの手を出してぶらりと下げた。そうして、こう言った。
「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。これから本郷の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」(夏目漱石『三四郎』)

 こんなところを読み飛ばしていては良いも悪いも言えた筈がないと思うのだがどうだろう。頭に白い薔薇を刺した女が、別の白い花を持っている不思議にも触れていない。阿刀田高はとにかく気が付いていない。「入鹿じみた心持」にも、「花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである」にも気が付かない。女の着物の色が隠されることにも、淀見軒の建築様式にも気が付かない。

 兎に角阿刀田は長々と引用をして文字数を稼ぐが、あらすじがつかめていない。よし子の縁談の相手に美禰子が嫁ぐ不思議にさえ触れない。あるいはよし子に対する三四郎の特別な感情に触れない。三四郎の身長が伸び縮みする事にも気が付かない。三四郎の風貌が殆ど書かれていないとしているので、意識しなかったのだろう。つまり『三四郎』が色を隠す話であることに気が付いていない。三四郎は色は浅黒くて、知的でハンサムだろうと阿刀田高は書いているが、広田先生と与次郎が坊主頭で、画家の原口が五分刈りであることに気が付いている様子もない。「五日目にこわごわながら湯にはいって、鏡を見た。亡者の相がある。思い切って床屋へ行った。そのあくる日は日曜である」とあるが三四郎の髪の長さは書かれない。坊主のようで坊主とは決められないように漱石は書いているのだ。
 そんなことも気が付かなくてはとても『三四郎』を読んだとは言い難い。阿刀田高は口を噤むべきだった。





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