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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する154 夏目漱石『明暗』をどう読むか③ こんなことを見逃していたなんて

いつ休みなんだろう?

 同じ話題が再び夫婦の間に戻って来たのは晩食が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵の口であった。
「厭ね、切るなんて、怖くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」
「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」
「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」
 細君は濃い恰好の好い眉を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊いた。
「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう
 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。
「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」
「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断わっちゃ」
「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」
「でもあたし行きたいんですもの」
「御前は行きたければおいでな」
「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭?」
 津田は細君の顔を見て苦笑を洩らした。

(夏目漱石『明暗』)

 ここは岩波の注が付かないところ。日曜日ごとにサラリーマンが押しかけていたら医者は一体いつ休みを取ればいいのか。この点については小一時間調べてみて有効な資料が見つからない。医師の召応義務は明治時代からあるが、休日診療というような言葉は大正時代には使われていないようだ。

 花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、先まずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読み耽ふけっていた花房は、これをお父うさんの「三茶の礼」と名づけていた。

(森鴎外『カズイスチカ』)

 この休日が日曜日なのかどうかは病院ごとに異なるのだろう。ともかく解ることは『明暗』の設定としては、日曜日でも手術をしてくれる診療所があったということだけだ。

厭かどうかという問題ではなく


 ここで細君は「切るか切らないか」は医者の判断として了解しながら、「芝居に行くか行かないか」は津田の自由意志によって判断できるものであるかの如く、手術と芝居をトレードオフの関係と見なさないという奇妙なロジックを提出する。
 津田にしてみれば芝居に行くのが厭かどうかという問題ではなく、たった一つの現実を選び取ることしかできないのだとでも言いたいのだろうが、仮に多重宇宙であれば、津田は日曜日に手術を受け、同時に芝居に行くことも可能なのである。
 しかし考えてみれば不思議なもので、次の日曜日に何をするか、という予定や約束など複数組むことができる。しかし大抵の人は現実をたった一つしか選ぶことはできない。色々な可能性がある中で、一つしか選べない。これは何故なのだろうか。
 津田は細君の幼稚さを笑っているようだが、書いているのはあの夏目漱石なのだ。夏目漱石は頭の悪い人ではない。偶然と必然の話から物の見え方の話、約束と自由意志、そして分岐しえない現実と話が流れている。小林医師は日曜日には休めない。ではいつ休めばいいのかという問題も単なる労働問題ではない。

眼球の大きさは同じだ

 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉が一際引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌のない一重瞼であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子は漆黒であった。だから非常によく働らいた。或時は専横と云ってもいいくらいに表情を恣にした。津田は我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される事もないではなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 岩波は「色の白い女」に注を付けて谷崎潤一郎の『痴人の愛』のナオミを引き合いに出す。

 ナオミは確かに色白だが、それはあくまで白皙人種のような白さであり、ここで漱石が書いている白さとはことなるものだろう。アンミカに言わせれば、白って200色あんねん、ということらしいので、ここは誤解のないようにしたい。

 そしてどうしても交わらない漱石と谷崎を無理に結びつけようとすることにも賛成しない。ナオミの容姿の特徴はむしろその顔のバタ臭さにある。大体一重だろうと二重だろうと眼球の大きさはほぼ同じで見えている部分が広いか狭いかの違いなのに、「惜しいことに」「おまけに」と漱石も随分な書きようだ。

 ここは津田が細君の表情をただ褒めているのではなく、津田が「我知らずこの小さい眼から出る光に牽きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳ね返される」と何だかふらふらする生き物であることが書かれている場面だ。相手は半年前に結婚した自分の女房である。もう見馴れても良い頃だ。これが素直で正直な描写なのかどうか、私には判然としない。ただ「小さい眼から出る光」というものが細君の意思や思考の代理物というようなものではなく、イビルアイにも代わり得る「視力光線」のように取り扱われていることに注目するべきであろう。
 漱石はここで外送理論に没している訳ではない。

 日が昇り沈むように目は細くなり眼からは光が出るものなのだ。それがものの見え方なのだ。違うというのは理屈で、見えているものに因って人は動かされていく。

他人の考えていることは解らない

 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。
「嘘よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」
 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった
「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中に端書を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」
「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」
「いえ私も止しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」

(夏目漱石『明暗』)

 当たり前のようだが他人の考えていることは解らない。しかしよくよく考えてみると自分の考えていることもよく分からない。言っている言葉が正直なものとは限らないし、そもそも言葉が何処から出てきたものなのかも曖昧だからだ。もしも他人も自分と同じような仕組みなら、他人の考えていることは二重の意味で解らない。

 この「黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった」は津田が細君の真意を測りかねている様子を表わしている。「彼女の眼に宿る一種の怪しい力」が「甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やき」であったからだ。

 しかしそれこそこれは「一重の人腹黒いと疑われやすい理論」で説明が付くことなのではなかろうか。二重の人は単純に目を細くして笑うことができるが、一重の人の場合はそこに妙な葛藤が混ざる癖がある。ここで細君は腹の底が探られている。後に細君の腹の中が見えた時に、案外裏がないという賺しが落ちになるという仕掛けだろう。

君は何を言っているのかね?

 津田は自分の受けべき手術についてなお詳しい話を細君にしなければならなかった。
「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初下剤をかけてまず腸を綺麗に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口へガーゼを詰めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰り上げて明日にしたところで、明後日にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」
「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」

(夏目漱石『明暗』)

 津田は「手術ってたって、そう腫物の膿を出すように簡単にゃ行かないんだよ」といい加減なことを言っているが、粉瘤の手術程痛いものはない。部分麻酔で肉をえぐるのだから相当なものだ。もう殺してくれと思うほどだ。それに比べれば全身麻酔の手術など寧ろ楽なものだ。こういうところも岩波はちゃんと注解をつけないといけない。

他にやるべきことがあるだろう

 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢に倚りかかったまま夫を見上げた。
「また御勉強?」
 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊った自覚がぼんやり働らいていた。
 彼が黙って間の襖を開けて次の室へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後から声を掛けた。
「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」
 津田はちょっとふり向いた。
「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」
 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配の急な階子段をぎしぎし踏んで二階へ上った。

(夏目漱石『明暗』)

 ここで「勾配の急な階子段」に注がついて、狭小住宅だと書いてあったような気がするが、今見るとそうは書いていない。

 それにしても津田は「寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣」なんて言っていないで他にするべきことがあるだろう。何しろ新婚六か月の新婚なのだ。それでもし外傷性痔瘻だと、また島田雅彦かなんかにゲイだと疑われるぞ。

 岩波はここで漱石にも鏡子夫人に「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない」というようなことを言ったという注を付けるが、それは子沢山な漱石に対して失礼である。作家の私生活には口を出さないでいてもらいたい。セックスをするもしないも作家の自由である。

三四日何をしていたのだろう?

 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊載せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折の挿んである頁を目標にそこから読みにかかった。けれども三四日等閑にしておいた咎が祟って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻えして書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途遼遠という気が自ら起った。
 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日までにもう二カ月以上も経たっているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物のように細君の前で罵っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽った。

(夏目漱石『明暗』)

 これは今気が付いたことだが、この日は何曜日で、津田はこの三四日のあいだ、夜間に何をしていたのだろうか。それは岩波も説明していないし、多分明示的には書かれていない。

 つまり三四日の出来事が明かになることで『明暗』という小説は落ちるのではなかろうか。「三四日等閑にしておいた咎が祟って」とは気が付いてみれば如何にもな仄めかしだ。ここに仕掛けがないわけはない。つまり津田はこの三四日の間に外傷性痔瘻が悪化するようなことをしてたのではなかろうか。

 それはつまり……。

[付記]

 ともかく大変なことに気が付いてしまった。気が付いてみると確かにここは仄めかしである。わざわざ引っかかるように書いてある。それなのにそのことにようやく今気がついた。私は馬鹿だ。

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