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贋物の証拠は? 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む28

 平野啓一郎は「49 『天人五衰』の「創作ノート」」において、

「『春の雪』創作ノート」では、『豊饒の海』の構想として、「第五巻(第四巻に該当)転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語」(括弧内平野)と計画されており、更に「——人類の普遍的相/——人間性の相対主義/——人間性の仮装舞踏会」ともある。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 この括弧の中に示された平野啓一郎の解釈は、既に商業出版されている『豊饒の海』幻の五部作について語る井上隆史の『三島由紀夫 幻の遺作を読む――もう一つの『豊饒の海』』と異なる解釈であることから比較検証が必要である。
 井上の指摘は「完成作とは大きく異なる内容の最終巻、つまり五巻目のプランが検討されていた」というだけに留まらず、三島由紀夫の死が行動のために早められ、文学が譲らねばならなかったというところまでを論じているのでただ「第五巻(第四巻に該当)」で片づけられるものではない。 

 そしてそもそも五部作の予定であったという点では平田篤胤の一霊四魂の形式に収まり、各巻の関係性が全く変わったものになることから、このモデルから四部作に変更されたことの意味を検証せねばならないだろう。

 三島の死が予定より早められた経過に関しては『暁の寺』脱稿直後「実に実に実に不快」であった筈の三島由紀夫がなにかとてもうきうきした感じで受けているインタビュー、『告白 三島由紀夫未公開インタビュー』 においても明らかである。
 この時点で三島由紀夫は開高健から聞いた話を基にした『豊饒の海』の次回作の計画を持っており、最後の古川との対談で「もう何もない、くたびれちゃった」と計画の変更が告白されている。

 つまり『暁の寺』の時点では三島の死は確定しておらず、『天人五衰』の次の作品の予定があり、それこそ白髪頭になって俳句を読む人生がないわけではなかったのだ。

 ここではいつどのように三島の計画が変更されたのかという詳細については触れない。いずれにせよ平野啓一郎の『三島由紀夫論』に於いては第五巻が第四巻であるという説明を欠いているとだけ指摘して先に進もう。

 平野は「50 安永透」において、

 後に「贋物」と判明する透の「悲劇」を劇的に描くために、作者は過剰なまでに、そのナルシシズムを強調している。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 と書いている。書かれている範囲ではその通りではある。ただし、ここにはあからさまに贋物として登場して焼き殺された今西と椿原夫人とのシンメトリーの確認が漏れていて、既に問われてきた本物の転生者であることの無意味さが認められていないのではないか。

 贋物とは何に対して贋物なのか?

 種村季弘に対して澁澤龍彦が贋物だというものもあるまい。本来誰でもが誰かのコピーになどなり得ず、自分自身は比類なき〈私〉に留まる事しかできないことは永井均が何十年も繰り返し論じてきた根源的な問いである。

 問題はここまで何度もチャンスがあったのに平野啓一郎が折口信夫の真床追衾に対する考え方を輪廻転生と比較しないことである。

 何か特殊な布のようなものにくるまれること、あるいはその布を敷くことにより、今上天皇は天照大神と直結する。こんなことが現実的に可能ならば、輪廻転生の連結ツールがその肉体そのものに内在する必要はなく、外付けのデバイスの付け替えでことが足りる筈である。

 血脈というのはある程度転生的な、何かを引き継ぐ現実的な仕組みではある。一部はコピーでもある。若返りもする。生命の連鎖というものはそういうものだ。

 しかしそうした現実的なものを無視して拵えられた神話と宗教は、どちらもかなり無理なことを言っている。その一番無理なところを突き詰めたのが三島由紀夫の生首の額に巻かれた鉢巻きの「七生報国」であると考えてみれば、そもそも安永透が本物ではないという物語そのものの無理が見えてこないだろうか。

 平野啓一郎は「51 「狂女」としての絹江」において、

 ジン・ジャンが、現象界とは異なる秩序に属する輪廻についての認識を持っていたが故に、「頭がおかしい」と目されていたのに対し、絹江は、

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 として醜いのに自分を美人だと思い込む絹江をただの狂人にしてみせる。しかしよくよく考えればジン・ジャンがただの狂人と区別されうるのは、既にジン・ジャンの小便を浴びる夢を真に幸福に感じて現実と非現実を等価にしてしまった変態爺さんの屁理屈ゆえなのである。『暁の寺』の本多をかろうじて狂人と呼ばないでいられるのは三島由紀夫のレトリックがそうでもないものをそう見せかける洗練された技術に支えられているからなのである。
 ふと出くわせば、本多はご同類の覗き魔に過ぎない。

 その本多が保証するジン・ジャンの確からしさなど、いかほどのものであろうか。それに比べれば醜いのに自分を美人だと思い込む女など、ごく当たり前の存在と言えないだろうか。

 例えば女優の……。

 ……。兎に角ここは三島由紀夫の仕掛けであり、一方をつつくともうっぼうが怪しくなるところだと見ておこう。

[附記]

 平野啓一郎はここでもポリテイカルコレクトネスに配慮してか「遺伝性の狂疾を持つ醜女の絹枝」という本質的な設定を意図的にぼかしてしまっているように見える。遺伝はいいも悪いもひっくるめて何かを引き継ぐ現実的な仕組みである。遺伝と生まれ変わりは明らかに比較されている。そこをごまかすとかえって変な差別意識が問われかねない。



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