この手紙では久米との海水浴の話がつづられる。芥川龍之介とって夏目金之助は師でもあり、どこかに畏怖があった筈なのだが、この手紙は妙に慕わしい。
こんなシーンはあたかも大正三年に書かれた『こころ』の冒頭の海水浴を思わせるが、残念、このライジングジェネレーションの手紙は、漱石の晩年、大正五年の八月一宮から出されたものであろうとされている。漱石に『鼻』を絶賛された直後である。『こころ』の冒頭の海水浴のシーンには、むしろ明治天皇崩御の直後の鎌倉への泊りがけの海水浴のイメージが多く注がれているものではないかと私は勝手に考えている。その鎌倉での海水浴では西洋人を見かけており、そのことが日記に残されている。
それにしても、この手紙には屈託がない。
そうかお前たちの為に丈夫でなければいけないのかと、漱石も苦笑いしただろう。いかにも憎めない愛嬌がある。しかしここに「ひやひや」や「少くとも」はいけないのではないか、と気が付かないのもおかしい。まだ「成し遂げた」とは思わないで、必死に『明暗』と格闘していた漱石のことを想えば、まあ「ひやひや」は許すとしても「少くとも」はいけない。まだなにごとも成し遂げていない私は思う。ジェネレエシヨンじゃないんだよと。