誰が猿なのか 芥川龍之介の『猿』をどう読むか⑧
昨日は無意識と意識のずれが意識されていて、「私」が分裂していて、奈良島の言葉が少しおかしいというところまで書いた。勿論語りながら聞き手に回る時点で芥川としては分裂する気満々である。猿股とオオストラリアの猿を出したところで「ないことないこと」を書く気満々である。
どんな文章を読んでもたちまち意味を理解してしまう素晴らしい読解力をお持ちの皆さんならば、「私たちより大きい、何物か」がなんなのかもうお解りでせう。
頭は下げられても首は下げられませんよ、と言いたい小説家はまた「こちらが何と形容するのかはこちらにお任せください」とも言いたかったであろう。「それにこの話を僕が小説に書くかどうかはまだ決めてませんから」とも。
しかし所詮この語り手は芥川が捏造した人物なので、小説家はそういちいち反論しない方がいい。確かに首ではなく頭を下げるべきではあろうが、そこはそれ、猟師のような気持でいたのに猟犬のようにとびかかる素人例えをするくらいなのだから、語用論的な間違いはしょうがない。それにしてもここにきて、つまりつい調子に乗って仲間を狩ろうとしていた恐るべき若者自身の言葉として捉えなおした時、この「面目ございません」という言葉は実に適切に思えてくる。
確かに彼は調子に乗っていた。昔はそんな子ではなかったはずだ。保育園のお散歩を見ていると殺伐としたSNSには「面目ございません」と謝ってほしくなる。みんなとてもいい子だったのに、いつのまにこんなことになってしまったのかと。noteの運営を考えれば、たまには有料記事を購入するべきなのにしない。断固としてしない。そして少しも悪びれない。それが正しいことなのかどうなのか判断できなくなっている。
確かに私は昔の彼を知らない。しかしこの「面目ございません」で昔の彼が見えてくる。彼はちゃんとした人間だ。常識がある。
しかし彼がそんなに真摯に自分と向き合っているのに、そういえばこの一年くらい学生時代の困った夢を見なくなったなとか、茄子の肉みそ炒めにピーマンは必要なのかとか、そういう余計なことをぼーっと考えている読者というものがいる。確かに学生時代あなたは曜日を間違えてテキストを忘れたり、履修登録を漏らして焦ったかもしれないし、ピーマンがなくても茄子と葱だけで茄子の肉みそ炒めはできるのかもしれない。けれどもそんなことは今はどうでもいいのだ。
あなたもむかしはそんなではなかったのではないか。
有料記事もたまには買う、そんな素直ないい子だったのではないか。
人は変わってしまう。
驚くほどに。
それにしても「私」の変わりようはすさまじい。一瞬にしてすっかり変わってしまった。「私たちより大きい、何物か」がなんなのか、もういちいち説明しなくてもいいですね。「面目ございません」という言葉は実質的に「それ」に言わされているわけです。
ここには人間とは何かという問いかけがある。人間は無意味な反復には耐えられない。それは人間が出どころの解らない意志というものを持ち、感情を持ち、何かよきものに奉仕したいと願う生き物だからだ。押さえつけ無意味な反復に閉じ込められた人間の意識はいつか発振しかねない。そこに徹底した悪意がなくとも、徹底した無関心で事足りる。
それにしてもこの語り手は小説家からドストエフスキーの本を借りるような関係性にあったのか。
しかしこの本の中に彼が述べているようなエピソードがあっだろうか?
バケツの文字は洗濯の為に一度きり用いられる。自殺の文字はない。この本は大正三年に出ているので勘定は合う。何か別の話と取り違えているのではないと思うがではどれと思いつくものがない。この点はさておこう。
とにかく奈良島はコソ泥の初犯ながら厳しい懲役刑に処せられた。何故軍艦の中てコソ泥などつまらないことをしたのかは定かではない。いや書いてある。
なるほど最後の「猿は懲罰をゆるされても、人間はゆるされませんから」という芥川らしい皮肉で、この話はうまく収まっているような気配はある。しかしよくよく考えてみると「奈良島が盗みをしたのは、やはり女からだと云ふ事でした」というのはいかがなものか。例えそうだとしたら「青貝の柄のナイフ」というのはどんなものだろうか。私はこれまで女がナイフをプレゼントされるという話を見聞きしたことはない。
そして「奈良島は人間だ。猿ぢやあない。」という言葉、引っかかってきませんか?
じゃあ、誰が猿なのかと言えば、
こいつが猿で、オオストラリアの猿というのはアボリジニのことなのではなかろうか。
今では考えられないことだが、昔は人間が檻に入れられて展示されていた。異人種に対する差別はかくもすさまじいものだったのだ。
いやまあ、芥川にそこまでの意図はなかったかもしれないが、何か引っかかるところである。そして「猿は懲罰をゆるされても、人間はゆるされませんから」という皮肉が、
この「猿にしても、可哀さうだからな」といういかにも人間らしいふるまいと真逆の冷酷さそのものであることも面白い。人間を縛るルールは最も人間らしくない形をとらさせるを得ないのだというもう一つの皮肉も見えてくる。
さらに今度は頭を下げた「私」は「妙にきまりが悪くなって」と明確な謝意の対象を欠いている。謝意の対象は本来は「それ」と指さすことの出来ないものだからだ。つまり「私たちより大きい、何物か」というものは、そもそも自分たちの中にしかないもので、ずっと自分たちがお世話になってきたもの、いろいろと心配したり迷惑をかけてきたものだということが解る。それは「私」の中にあるのに「私」を内包する概念、つまり人間であろう。
人間ならこれを買おう。
[余談]
よく見たら、この顔本当に人間?
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