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レトリックが悪いわけではないが 伊藤氏貴の『同性愛文学の系譜』を読む①

 特に「先生」と「私」に関しては、「先生」自らが「私」に向かって、「私」の「先生」に対する気持ちの中に「愛」が含まれていることを暴露する。今のことばづかいで言えば、本人も気づいていない深層心理のアウティングということにでもなろうか。

(伊藤氏貴『同性愛文学の系譜 日本近現代文学におけるLGBT以前/以後』勉誠出版 2020年)

 今は卒論などでもレトリックをぶんぶん振り回して何も指導されないものなのだろうか。これは卒論でもなかろうが、余りにもレトリック感覚が鈍いので、ついそんなことを考えてしまう。

 まずこの短い引用の中で適切ではないレトリックが三つばかり含まれていることを指摘しておこう。

 その最初の一つは「愛」である。これは意図的に論旨に合わせて言葉を置き換えたもので不正確。

「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
「それはそうかも知れません。しかしそれはとは違います」
恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」

(夏目漱石『こころ』)

「私」の「先生」に対する気持ちの中に「」が含まれているというのは間違いで、「私」が「先生」のところへやってくる気持ちの中には「恋に上る楷段」の要素があるのではないか、と「先生」は主張しているわけですよ。「愛」とは言っていません。

 愛と恋とは違いますよね。しかしここは胡麻化したんでしょうね。論旨に合わせるために。こうした置き換えは許される場合とダメな場合があって、真面目な論文だとこれで一発アウトですね。アウトというか書き直しです。全然お話になりません。

 それから「暴露」はいけません。今、「A子もB子もC子も暴露」と書かれるといかにも本当にそんなことがあったかのように受け止められてしまうという現象があります。これはいけません。

 そんなもん言ったもん勝ちになりますからね。

 これは当て推量で、「私」自身が「懐かしみ」から先生に近づいていたことは既に書かれています。「他の懐かしみに応じない先生は」と、こう書かれていて、「どうしても近づかなければいられないという感じ」「直観」と書かれ、最終的にそれは「私」だけに事実の上に証拠立てられます。

 愛なんてなかったんです。

 なんかエログロナンセンスな週刊誌並みの表現がまかり通って嘘が広められているのが悲しい。

 で、三つ目のレトリックが「本人も気づいていない深層心理のアウティング」である。こんなことがまかり通れば誰でもが裸の大様にされてしまう。この論法だと本人はそう言っていないが彼は同性愛者である、という事例がいくらでも捏造されてしまう。

 先ほど暴露と書いてないものをさもあるかのように見せておいて、「本人も気づいていない深層心理のアウティング」と嘘を重ねて反論を封じてしまう。下品なやり方だ。

 こうされると「私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。」という自己分析がただの「気が付かなさ」に貶められてしまう。無理やり動機が捏造されて冤罪の犯人にされてしまうようなものだ。

 しかし既に見てきたように「恋に上る楷段」の要素を無理やり「愛」に置き換えたところで彼の論旨は破綻しているので、暴露もアウティングも何の意味もない。

 よくぞこんな本が出版されたものだと呆れるよりない。

 近代文学1.0は本当に終わっている。


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