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『彼岸過迄』を読む 13  田川敬太郎の不細工な妹はむごたらしく死んだのか? あるいは詩人再考


 僕は自分と千代子を比較するごとに、必ず恐れない女と恐れる男という言葉をくり返したくなる。しまいにはそれが自分の作った言葉でなくって、西洋人の小説にそのまま出ているような気を起す。この間講釈好きの松本の叔父から、詩と哲学の区別を聞かされて以来は、恐れない女と恐れる男というと、たちまち自分に縁の遠い詩と哲学を想い出す。叔父は素人学問ながらこんな方面に興味を有っているだけに、面白い事をいろいろ話して聞かしたが、僕を捕まえて「御前のような感情家は」と暗に詩人らしく僕を評したのは間違っている。僕に云わせると、恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命である。僕の思い切った事のできずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐むのである。否時によると彼女のために戦慄するのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命」こんな話をどこかで聞いたような記憶がある。

「女には詩人が多いですね」と笑いながら言った。すると広田先生が、
「男子の弊はかえって純粋の詩人になりきれないところにあるだろう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙った。(夏目漱石『三四郎』)

 広田は「あぶない、あぶない」という「批評家」だった。冒険が出来ない。野々宮は穴倉にこもっている。三四郎は奥手で困る。そう思ってみれば、やはり詩人には恐れない女の方がふさわしい。しかしどう云う訳か『三四郎』では広田と三四郎が詩に準えられ、美禰子が絵に準えられた。新しい女、恐れない女に見えた美禰子は案外無難な紳士を見つけて急に嫁いだ。このロジックはどこか歪んでいて、むしろ「恐れないのが詩人の特色で、恐れるのが哲人の運命」という須永の見立ての方がすっきりして見える。

 ところが『彼岸過迄』においてもそう話をシンプルには仕上げない。この直後、聞き手である敬太郎の批判が差しはさまれる。

 須永の話の末段は少し敬太郎の理解力を苦しめた。事実を云えば彼はまた彼なりに詩人とも哲学者とも云い得る男なのかも知れなかった。しかしそれは傍から彼を見た眼の評する言葉で、敬太郎自身はけっしてどっちとも思っていなかった。したがって詩とか哲学とかいう文字も、月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして、ほとんど一顧に価しないくらいに見限っていた。その上彼は理窟が大嫌いであった。右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった。したがって恐れる男とか恐れない女とかいう辻占に似た文句を、黙って聞いているはずはなかったのだが、しっとりと潤った身の上話の続きとして、感想がそこへ流れ込んで来たものだから、敬太郎もよく解らないながら素直に耳を傾むけなければすまなかったのである。
 須永もそこに気がついた。
「話が理窟張ってむずかしくなって来たね。あんまり一人で調子に乗って饒舌っているものだから」
「いや構わん。大変面白い」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 松本恒三が須永市蔵のことを「御前のような感情家は」と評すのも、また田川敬太郎がどちらとも思わないのも筋が通っている。

 むしろここでは須永市蔵の「詩人論」が田川敬太郎によって、「月の世界でなければ役に立たない夢のようなものとして」放り投げられていることを観なくてはならないのだろう。「右か左へ自分の身体を動かし得ないただの理窟は、いくら旨くできても彼には用のない贋造紙幣と同じ物であった」と考える田川敬太郎は、単に何も考えられない馬鹿なのではない。そこにはまるで三島由紀夫の観念の空中戦を揶揄うような冷徹さがある。

 確かに須永市蔵の言っていることはいくらそれらしく聴こえようとも、例えば「実際家」である田口の役に立つものではなく、いわば唯の青臭い理屈に過ぎない。詩とか哲学とかいう文字も空疎だ。ただ田川敬太郎が云うように「面白い」のはこの後鎌倉の海水浴の話となり、理屈ではなく「文鎮」が持ち出されることだ。

 大塚楠緒子は明治四十三年十一月九日に他界し、この『彼岸過迄』が書かれている時点では既にこの世にはない。『それから』を読んで精神衰弱になった大塚保治に対して、まだなお持ち出される文鎮はあらゆる理屈を超越して途轍もない。

 ある女に意のあったある男が、その婦人から相手にされないのみか、かえってわが知り合の人の所へ嫁入られたのを根に、新婚の夫を殺そうと企てた。ただしただ殺すのではない。女房が見ている前で殺さなければ面白くない。しかもその見ている女房が彼を下手人と知っていながら、いつまでも指を銜えて、彼を見ているだけで、それよりほかにどうにも手のつけようのないという複雑な殺し方をしなければ気がすまない。彼はその手段として一種の方法を案出した。ある晩餐の席へ招待された好機を利用して、彼は急に劇しい発作に襲われたふりをし始めた。傍から見るとまるで狂人としか思えない挙動をその場であえてした彼は、同席の一人残らずから、全くの狂人と信じられたのを見すまして、心の内で図に当った策略を祝賀した。彼は人目に触れやすい社交場裡りで、同じ所作をなお二三度くり返した後、発作のために精神に狂いの出る危険な人という評判を一般に博し得た。彼はこの手数のかかった準備の上に、手のつけようのない殺人罪を築き上げるつもりでいたのである。しばしば起る彼の発作が、華やかな交際の色を暗く損ない出してから、今まで懇意に往来していた誰彼の門戸が、彼に対して急に固く鎖されるようになった。けれどもそれは彼の苦にするところではなかった。彼はなお自由に出入でいりのできる一軒の家を持っていた。それが取りも直さず彼のまさに死の国に蹴落とそうとしつつある友とその細君の家だったのである。彼はある日何気ない顔をして友の住居を敲いた。そこで世間話に時を移すと見せて、暗に目の前の人に飛びかかる機を窺った。彼は机の上にあった重い文鎮を取って、突然これで人が殺せるだろうかと尋ねた。友は固より彼の問を真に受けなかった。彼は構わずできるだけの力を文鎮に込めて、細君の見ている前で、最愛の夫を打ち殺した。そうして狂人の名の下もとに、瘋癲院に送られた。彼は驚ろくべき思慮と分別と推理の力とをもって、以上の顛末を基礎に、自分のけっして狂人でない訳をひたすら弁解している。かと思うと、その弁解をまた疑っている。のみならず、その疑いをまた弁解しようとしている。彼は必竟正気なのだろうか、狂人なのだろうか、――僕は書物を手にしたまま慄然として恐れた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 どう考えても真面ではない。妻の死後、なおこんなものを読まされた大塚保治は堪らないだろう。今にも文鎮を手にした漱石が訪ねててこないかとひやひやしたことだろう。

 こうなるとそもそも松本恒三は須永市蔵の目に重い文鎮を脳天の骨の底まで打ち込むような感情の激しさが潜んでいることを見抜いていたのかも知れないとも思えて來るし、実際須永の話を聞いた田川敬太郎にしてみれば、須永市蔵は詩人でも哲学者でもなくなるだろうとも思える。

 しかし須永の話は鎌倉の海水浴で一段落し、この後に敢て田川敬太郎の感想は差しはさまれない。従って須永については「結末」で曖昧に総括されることになる。

 彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そうして彼らは必竟夫婦として作られたものか、朋友として存在すべきものか、もしくは敵として睨み合うべきものかを疑った。その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を駆って彼を松本に走らしめた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これでは殆ど出歯亀に戻っている。松本は須永市蔵と千代子のことは成り行きに任せるのがよかろうと傍観している。無論哲學やら詩の話は拾わない。田川敬太郎も文鎮には触れない。いや仮に『彼岸過迄』から「須永の話」を切り取って喜ぶ人たちがいたとして、須永市蔵と千代子のいちゃつく姿に興奮するのは勝手だが、「須永の話」の肝はやはり文鎮であろう。重い文鎮を脳天の骨の底まで打ち込むような感情の激しさが潜んでいる男がぐずぐずして、贋造紙幣を振り回しているから面白いのではないか。

 書かれていることは所詮男女の事である。しかし文鎮が効いている。文鎮がなくては詩ではなくなる。

 三島由紀夫の『金閣寺』も有為子と菓子パンで持っている。有為子と菓子パンがなければ、いくら南泉斬猫などを持ち出しても唯の贋造紙幣だ。

 何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではなかろうか。(三島由紀夫『金閣寺』)

 これほどに凡庸な若さを、漱石は認めない。漱石は須永市蔵を特別な存在にはしない。それは田川敬太郎という徹底した観察者のお蔭だ。

 彼は須永の口から一調子狂った母子の関係を聞かされて驚ろいた。彼も国元に一人の母を有つ身であった。けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纏綿されていなかった。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑わなかった。同時に親子の間は平凡なものと諦めていた。より込み入った親子は、たとえ想像が出来るにしても、いっこう腹にはこたえなかった。それが須永のために深く掘り下げられたような気がした。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この「一調子」「深く掘り下げられたような気がした」は少し軽くないだろうか。この軽さには、理窟が大嫌いで、どこか情の薄い田川敬太郎の性格があらわれていよう。重い文鎮を脳天の骨の底まで打ち込む夢を目を開けたままみる男・須永市蔵よりも、むしろ田川敬太郎の方にうっすら狂気を感じるのは田川敬太郎が文鎮なんぞにはフォーカスしないからだ。

 元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯りなき事実ではあるが、いまだに成効の曙光を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値が籠っていた。彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地を有っていた。固より大した穀高になるというほどのものでもないが、俵がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒ぎでないにしても、郷党だの朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽られている事はたしかであった。そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮かならぬ及第をしてしまったのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 このこともこれまで『彼岸過迄』について語られた評論の中で殆ど触れられたことのない指摘だと思うが、この「(妹が片づいて、)」とはなんだろう? 

 いや「彼は須永のような一人息子ではなかったが」と話者がまるで須永に妹がいたことを知らないかのように振舞うのは一体どういう了見だろう。それはそもそも「妙ちゃん」と須永市蔵が兄妹ではないという意味なのか。 そうだとして話者が「(妹が片づいて、)」といい「母一人残っている」というのはどういうことなのだろう。

 「母一人残っている」とは普通に考えれば、父が死んだということであろう。では「(妹が片づいて、)」とは妹が無事にどこかに嫁いだという意味だろうか。それにしても田川敬太郎の妹の息遣いは微塵も感じられない。母との手紙のやり取りもない。田舎が何処とも知れない。あるいは話者は「(妹が片づいて、)」として田川敬太郎の妹を殺してしまってはいないだろうか。

 彼は独身ものであった。小児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭の宵に生れた女の子の運命を、あたかも御雛様のそれのごとく可憐に聞いた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こう言われてみると「田川敬太郎の不細工な妹はむごたらしく死んだ」と云われているようにさえ思えてくる。そうであれば「(妹が片づいて、)」という投げやりな表現とも平仄が取れ、文鎮など意にも介さない田川敬太郎の冷徹さにもまた納得がいく。

 いやむしろそうでないなら、「田川敬太郎は哲学者でも詩人でもない須永市蔵に文鎮の狂気が潜むことに驚いた」という総括がないことが何とも不自然なのだ。

 漱石の語彙では『明暗』でも『行人』でも『彼岸過迄』でも「片づく」は嫁ぐことであり、後は「整理が出来ている」という意味で使用されており、死を意味する用法は見当たらない。

 となると「田川敬太郎の不細工の妹はむごたらしい死」は消え去り、文鎮さえ凡庸と見做す田川敬太郎の怪しさだけが残ることとなる。

 千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画を見るようなところに、彼の快感を惹いた。(夏目漱石『彼岸過迄』)
 子供の葬式が来た。羽織を着た男がたった二人ついている。小さい棺はまっ白な布で巻いてある。そのそばにきれいな風車を結いつけた。車がしきりに回る。車の羽弁が五色に塗ってある。それが一色になって回る。白い棺はきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい弔いだと思った。(夏目漱石『三四郎』)

 『三四郎』は徹底して色を隠す話なので五色が何と何、一色が何色と説明はない。三四郎には一色の風車の色を五色に分解する特殊能力がある。それは良いだろう。明治四十一年に書かれたこの「美しい弔い」は明治四十四年十一月二十九日に亡くなる雛子の死の前にある。ここではまだ美しいものであり、快感には達しない。

 森本よりも須永よりも田口よりも松本よりも凡庸な、田川敬太郎の感覚の中には確かに夏目漱石の途轍もなさが隠されており、だからこそ文鎮が持ち出されて高木の脳天から突き刺さり、田川敬太郎はそんなことには一切気を止めないのだ。

 感情が無だからではない。「人間の異常なる機関が暗い闇夜に運転する有様を、驚嘆の念をもって眺めていたい」と嘯いた田川敬太郎にとっては文鎮の白日夢では物足りないのだ。実際に高木の脳みそが零れ落ちるさまをガス灯の明かりの下に見なければ、田川敬太郎は高木を回顧すらしない。物足りないところが幸せであると、漱石は締めているけれど、田川敬太郎のいかがわしさは救いようがない。

[余談]

  

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 明治二十三年、饗庭篁村の小説に菓子パンが出て來る。この菓子パン、どんなものか正体不明だ。

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 砂糖や牛乳、卵などの分量を増やせばもう菓子パンのようで、ジャムパンとしてはビスマーク・バンズなるものがあったようだ。

 焼きそばは昭和九年に古川緑波が「チキングリルと来々軒の焼そば」と書いていて、来々軒は『三府及近郊名所名物案内』日本名所案内社 1918年、大正七年に出て來るもメニューは不明。おそらく当時の焼きそばはソース焼きそばではなく、あんかけ焼きそばであったと思われ、組み合わさっても焼きそばパンにはなりそうもない。

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なんもでないぞ。














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