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芥川龍之介の『じゅりあの・吉助』をどう読むか① ジャアナリストと云われても

 それにしても最後の最後でクリストはジャアナリストだと言われても、読者はどんな顔をすればよいのだろう?

 しかもそれは自分の好むスタイルではなく、ゲーテに軽蔑されていると言われてしまうと、何か足を掬われるというか、身を躱された感じがしないものだろうか。
 
 その点漱石は比較的クリアだ。『明暗』では飽食を除く七つの大罪が意識されているようなところがなくもないが、キリスト教的一神教にも、キリストを神の子と見做すことにも全く興味を示さない。

 この言い方は微妙だが、その一方で芥川龍之介と太宰治がキリスト教、及びキリストに興味を示していたことは間違いない。その興味がどういう興味なのかということが私には判然としない。

 例えば、『じゅりあの・吉助』はキリスト教、及びキリストに関係ない小説とは言い難いけれども、キリスト教、及びキリストに関する小説の中でも飛び切り……一言で言えば滅茶苦茶な話なのである。

 何が滅茶苦茶といって、短い話なので全部である。

 二分で読めるが五分は頭に何も浮かんでこない。そこで少しでも整理してみようと思う。まず、

 奉行の前に引き出された吉助(きちすけ)は、素直に切支丹宗門を奉ずるものだと白状した。それから彼と奉行との間には、こう云う問答が交換された。
 奉行「その方どもの宗門神は何と申すぞ。」
 吉助「べれんの国の御若君、えす・きりすと様、並に隣国の御息女、さんた・まりや様でござる。」

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 オランダ語のBelémはベツレヘム、キリスト生誕の地である。聖母マリアの生まれはその遥か北、当時の感覚で隣国と呼びうるかどうか怪しいナザレである。
 しかし問題はイエス・キリストと聖母マリアが、母と子が、若君と姫として、まるで恋仲のように並べられていることだ。

 そして吉助の読みが「きすけ」ではなく「きちすけ」であり、あたかも「クリスト」を模しているかのようであることだ。

 いや、「宗門神」が問われているのに「えす・きりすと」と「さんた・まりや」が担がれることだ。

 しかし無茶苦茶はこれでは終わらない。

 奉行「そのものどもはいかなる姿を致して居るぞ。」
 吉助「われら夢に見奉るえす・きりすと様は、紫の大振袖を召させ給うた、美しい若衆の御姿でござる。まったさんた・まりや姫は、金糸銀糸の繍をされた、襠の御姿と拝み申す。」

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 芥川の言いたいのは。宗教と云うものはローカル化されて受容されるという一種の理屈ではあるのだろう。その土地土地の文化や風習に沿い、神聖なもの高貴なもののイメージが当て嵌められ、本来浅黒い筈のキリストの肌が西洋白人のものと交換されてしまうように、日本人に受容されるキリストは美しい若衆の御姿にならねばならないと。

 また宗教画をみてもそうであるように確かに聖母マリアは神ではないのに、キリスト教信仰の中で重要な役割を担っており、実質的に信仰の対象の一部であると言って差し支えないと。

 これは理屈でむしろその通りだ。しかし芥川は理屈を超えて來る。

 奉行「そのものどもが宗門神となったは、いかなる謂れがあるぞ。」
 吉助「えす・きりすと様、さんた・まりや姫に恋をなされ、焦れ死にに果てさせ給うたによって、われと同じ苦しみに悩むものを、救うてとらしょうと思召し、宗門神となられたげでござる。」

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 これでは殆ど切支丹宗門などではなくなっている。ここで五分悩む。

 解る部分もある。人は本を読んでも自分の好きなように読む。よくぞここまで誤解したなと云う読みがたくさんある。つまり吉助は三郎治の一人娘の兼と云う女に懸想をしたけれども相手にされないので、……

①自分に都合のいい宗教を捏造した
②たまたま出会った紅毛人が吉助の欲しがる宗教をでっちあげた

 いずれにしても創作である。嘘話である。創作であり、嘘話ではない宗教などなく、宗教は虐げられた愚民の希望の物語であるということか。しかし芥川がそんなに分かりやすい話を書く訳もない。

 奉行「してその紅毛人は、その後いずこへ赴いたぞ。」
 吉助「されば稀有な事でござる。折から荒れ狂うた浪を踏んで、いず方へか姿を隠し申した。」
 奉行「この期に及んで、空事を申したら、その分にはさし置くまいぞ。」
 吉助「何で偽りなどを申上ぎょうず。皆紛れない真実でござる。」
 奉行は吉助の申し条を不思議に思った。それは今まで調べられた、どの切支丹門徒の申し条とも、全く変ったものであった。が、奉行が何度吟味を重ねても、頑として吉助は、彼の述べた所を飜さなかった。

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 この奉行の偉いところは聞き役に徹するところだ。攻め手としてもこれまでに聞き及んだ切支丹門徒の申し条との差異を突き、ぼろを出させるというやり方もありそうなものだが、どこがおかしいとは敢えて指摘しない。

 じゅりあの・吉助は、遂に天下の大法通り、磔刑に処せられる事になった。
 その日彼は町中を引き廻された上、さんと・もんたにの下の刑場で、無残にも磔に懸けられた。
 磔柱は周囲の竹矢来の上に、一際高く十字を描いていた。彼は天を仰ぎながら、何度も高々と祈祷を唱えて、恐れげもなく非人の槍を受けた。その祈祷の声と共に、彼の頭上の天には、一団の油雲が湧き出でて、ほどなく凄じい大雷雨が、沛然として刑場へ降り注いだ。再び天が晴れた時、磔柱の上のじゅりあの・吉助は、すでに息が絶えていた。が、竹矢来の外にいた人々は、今でも彼の祈祷の声が、空中に漂っているような心もちがした。

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 そして吉助が吐いた物語の外側でさもキリストめいた物語が吉助をからめとっていく。

 どういうわけか吉助はキリストのように殺されてしまう。

 それは「べれんの国の若君様、今はいずこにましますか、御褒め讃え給え」と云う、簡古素朴な祈祷だった。
 彼の死骸を磔柱から下した時、非人は皆それが美妙な香りを放っているのに驚いた。見ると、吉助の口の中からは、一本の白い百合の花が、不思議にも水々しく咲き出ていた。
 これが長崎著聞集、公教遺事、瓊浦把燭談等に散見する、じゅりあの・吉助の一生である。そうしてまた日本の殉教者中、最も私の愛している、神聖な愚人の一生である。

(芥川龍之介『じゅりあの・吉助』)

 無茶苦茶な宗教を信じ、何の救いも得られず、ただ殺されてしまった吉助に聖者のような奇蹟を与え、「殉教者」と呼んでみる、そして「神聖な愚人」と呼んでみる。この物語からはキリスト教、及びキリストそのものは排除されている。ただ吉助に与えられた奇妙な宗教があり、その宗教の為に「殉教者」となる吉助がいる。そこに聖者のような奇蹟を与える芥川の中には本当の宗教とはこういうもので、吉助に与えられた奇妙な宗教とキリスト教、吉助とキリストの間に本質的な差はないとでも言いたいかのようでさえある。

 それにしても吉助は「べれんの国の若君様、今はいずこにましますか、御褒め讃え給え」と云いながら「さんた・まりや姫に恋をなされ、焦れ死にに果てさせ給うた」えす・きりすと様と「娘の兼に対しては、飼犬よりもさらに忠実」だった自分を重ね、この地上に三郎治の一人娘の兼というもう一人のさんた・まりや姫を作り出したことになる。

話は違ふが、人間は何かしら自分の好愛する物を拵へなければ承知しないんだと見えるね。どんなに自分の身の周りが貧弱であり、どんなに空疎な境遇にゐても、矢張何かしらその中に好きな物が出来てくる。眼に觸れるものに一つとして美に値する對象がなくなつてしまつても、それでも無理にでも見附け出す。見附け出さずには生きてゐられない。それは孤獨であればあるほど、淋しければ淋しいほど、猶さうなる。

(谷崎潤一郎『アエ゛・マリア』)

 このえこひいきのロジックはドミナの本質的な非在を言い当てている。谷崎が沼正三のように実在のドミナを認めることなどないのだ。幇間と奴隷と老いぼれ犬によって捏造されるドミナと、そのようにしてドミナを捏造せねばならぬ孤独と淋しさを谷崎は裏返しで述べていると見てよいだろう。

 では芥川は近場で適当に済ませようとする吉助を笑っているだろうか?

 私にはどうもそうは思えない。むしろ死ぬ間際に大声を出したクリストが笑われているような気がする。

 あるいは「さんと・もんたに」などという地名が日本にあるかどうか、「三渡門谷」と漢字をあてて探している私が笑われている気もする。聖なる山?



[余談]

長髪?

色白?


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