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独眼竜春水 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑨

「私は作者ぢやない。お客様のお望みに従つて、艶物を書いてお目にかける手間取りだ。」――かう春水が称してゐると云ふ噂は、馬琴も夙に聞いてゐた所である。だから、勿論彼はこの作者らしくない作者を、心の底から軽蔑してゐた。が、それにも関らず、今市兵衛が呼びすてにするのを聞くと、依然として不快の情を禁ずる事が出来ない。
「兎も角あれで、艶つぽい事にかけては、達者なものでございますからな。それに名代の健筆で。」
 かう云ひながら、市兵衛はちよいと馬琴の顔を見て、それから又すぐに口に啣へてゐる銀の煙管へ眼をやつた。その咄嗟の表情には、恐る可く下等な何者かがある。少くとも、馬琴はさう感じた。
「あれだけのものを書きますのに、すらすら筆が走りつづけて、二三回分位なら、紙からはなれないさうでございます。時に先生なぞは、やはりお早い方でございますか。」
 馬琴は不快を感じると共に、脅されるやうな心もちになつた。彼の筆の早さを春水や種彦のそれと比較されると云ふ事は、自尊心の旺盛な彼にとつて、勿論好ましい事ではない。しかも彼は遅筆の方である。彼はそれが自分の無能力に裏書きをするやうに思はれて、寂しくなつた事もよくあつた。が、一方又それが自分の芸術的良心を計る物差しとして、尊みたいと思つた事も度々ある。唯、それを俗人の穿鑿にまかせるのは、彼がどんな心もちでゐようとも、断じて許さうとは思はない。そこで彼は、眼を床の紅楓黄菊の方へやりながら、吐き出すやうにかう云つた。
「時と場合でね。早い時もあれば、又遅い時もある。」
「ははあ、時と場合でね。成程。」
 市兵衛は三度感服した。が、これが感服それ自身に了る感服でない事は、云ふまでもない。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 漱石は早い。芥川は速読で遅筆、と一般に言われる。しかしそれは正しくない。芥川は俳句か漢詩かという密度で文章を書いている。漱石は長篇小説の文体で書いていた。芥川は典型的な短編小説の文体の持ち主だった。もっとも少し緩めて書いても結局話は短く終わるので、芥川は典型的な短編小説家、圧搾の美を追求した作家ということなのであろう。
 そんな芥川が馬琴に問題を共有させている。

 馬琴が仮に為永春水よりも筆が遅かったとするならば、それは言葉の密度が異なるのだと。為永春水は素養がないからすかすかの文章をすらすら書けるのだと。

 そしてもう一つ芥川が意識して為永春水に言わせたのが「お客様のお望みに従つて、艶物を書いてお目にかける手間取りだ」ということだろう。

 漱石や太宰が「艶物」、いわゆる「ちんちんかもかも」を好んで書いたのに対して、芥川はただ一作しか書かなかった。

 書いたところでそれはうんこを食べる話だった。(その点は森鴎外も同じか。)まるでサムライのように徹底していて、スシのように山葵が効いている。芥川作品はテンプラのようにカラッと揚がっている。

 それにしてもまだ大正六年なのである。芥川が死ぬまでにはまだ十年近くも時間がある。なのにまるで「艶物」とは決別するよと線引きをするかのように、馬琴にかこつけて為永春水、柳亭種彦を攻撃している。

 この三人の比較に関してはやはり昨日引いた断腸亭の分析が妥当だろう。そしてその見立ては殆ど芥川のものと一致していよう。断腸亭の顔が長いのは伊達ではない。芥川は唐心を隠しもしないし、北京に住みたいとも考えていた。その点で馬琴と芥川は合うのであろう。断腸亭は最後の戯作三昧の人である。(これは私が勝手に言っていることではなくて、ウィキペディアにもそんなことが書いてあるし、ネオ戯作者早飯亭大糞もそんなことを書いている。)だから断腸亭には馬琴の真面目さが見えていたし、ある意味では最も戯作者らしい為永春水にこそ惹かれた。芥川は戯作三昧と言いながらどこかに芸術家としての意識があった。

 しかしここでは市兵衛が馬琴に「鼠小僧」という餌を差し出したことの的確さを認めなくてはならないだろうか。これを為永春水にふっても仕方ない。鼠小僧なら談義本の馬琴だなという、その判断は適切であろう。鼠小僧の恋愛物語など想像もつかない。しかし種彦や春水なら艶を加えて人情本にしてしまうかもしれない。鼠小僧は馬琴でなくてはならない。

 そう書いてみて改めて思う。まだ大正六年なのだ。何故に芥川はそこまで思いつめねばならなかったのかと。この作品はどんなくだらない批評よりも確実に未来の芥川を牽制してしまったように思う。

 誰にしても自由気ままに生きられる人などいない。断腸亭もあちこちにぶつかり跳ね返されて、ああいう人生を選ばずにはいられなかったように思う。しかし芥川は大正六年の『戯作三昧』において自ら、無理やり狭いところに自分を追い込んでしまったように思える。

 なんでや?

 繰り返し書いているように『戯作三昧』は『鼠小僧治郎吉』に繋がる。そのことそのものには何の問題もないように思う。元々芥川のルーツにあったものが小説化されただけなのだから。

 これまで私は芥川にただ一作しか恋愛小説がない理由を、彼の手厳しい失恋体験によるものと見做してきた。

 しかしよくよく考えてみるとそのことのみが理由の全てであるわけもない。ごくありきたりに、芥川は『源氏物語』よりも『平家物語』を好むから『源平盛衰記』をもとに『俊寛』を書き、為永春水よりも曲亭馬琴を好むので『戯作三昧』を書いたのではなかろうか。芥川の中にはそもそも胸キュン恋愛小説の素質がまるでなかったのではないか。

 五欲は放つが胸キュンはない。それが芥川なのではないか。

  彼はこの後で、すぐに又、切りこんだ。
「でございますが、度々申し上げた原稿の方は、一つ御承諾下さいませんでせうか。春水なんぞも、……」
「私と為永さんとは違ふ。」
 馬琴は腹を立てると、下唇を左の方へまげる癖がある。この時、それが恐しい勢で左へまがつた。
「まあ私は御免を蒙らう。――杉、杉、和泉屋さんのお履物を直して置いたか。」

(芥川龍之介『戯作三昧』)

春水の著作を通讀するに、文政年間二世南仙笑楚滿人と號したころのものと、春水と改名してから、天保年代になつて執筆したものとは全く作風を異にしてゐる。天保三年春水はその年四十三。「春色梅ごよみ」を梓行するに及んで俄に聲明を博し、こゝに始て自ら人情本の開祖と稱するに至つた。

罹災日録

永井荷風 著扶桑書房 1947年

春水も天保二年には年も旣に四十を越え、多年濫作してゐる中にも、いつとはなく筆致は圓熟し、おのづから述作の秘訣を悟るに至つたものであらう。

罹災日録

永井荷風 著扶桑書房 1947年

 この「私と為永さんとは違ふ」には、「私はあんな俗物ではない」という思いと共に、「私は艶物を書かない作者だ」という強い意地が見える。この強い意地が何故のものなのかこの作品で明らかになるのかどうか。税金はいくら還付されるのか。それはまた誰も知らない。国税は1,587,261円らしいが、住民税の計算がまだだからだ。

 しかしここで一つ、余り現代では言われないことを書かざるを得ない。書かないのはやはり間違いだまちがいだ。

 この後馬琴は両目の視力を失い、口述筆記に寄り「八犬伝」を完成させる。だからやたらとこれまで目のことが言われてきたのだ。

 ところで爲永春水は、ウィキペディアには書かれていないが、

性來隻眼であつた爲め世人は綽號して眼長と呼んだ。

下野大観

浜館貞吉 著下野大観刊行会 1926年

 何をお前は人様の身体的ハンデを晒しているのだと叱られても、これはやはり書かざるを得ないことだ。

人情本傑作集 山崎麓 校博文館 1928年

 春水はもがいて死んだ男だ。猥褻本を出したとして手錠を五十日かけられる刑にあって、酒を飲み神経症を起こして死んだと言われている。

日本英雄伝 第6巻 菊池寛 監修||日本英雄伝編纂所 編非凡閣 1936年

 学殖もなく、文章も拙くとは言われたものである。

日本文学大辞典 第2巻 藤村作 編新潮社 1934年

 春水はみっともない男だった。馬琴の本の版木を手に入れて、自分の名前を入れて刊行していたりしていたようだ。

文政中人の爲に吾舊作の讀本などを筆削し、させて多く毒を流したれば、實に憎むべき者なり。

現代語訳国文学全集 第二十六卷

 馬琴にもバレている。

 理屈を言えば、春水は馬琴の威を借りねばならないほど困窮していたわけだ。それは必ずしも金銭的なことだけを意味しない。春水は世に出て何者かになりたかった。既に馬琴は世に出ていた。格の違いを理解していたわけだ。それは当然馬琴からしてみれば比較にもならない差だ。

 そして春水は隻眼なのである。「私と為永さんとは違ふ」とは言うと思っていた。しかし馬琴が、或いは芥川がどれほどの意味を込めて「私と為永さんとは違ふ」といったのかは不明だ。

 芥川は最後、片目に障害があったようだ。

 その不安はまた私にもある。


[余談]

 それにしてもe-Taxはアホ仕様だな。なんで昨年の繰越金額が表示されへんねん。配当金のエクセルも相変わらずだし。自分で使ったことあるんかな。

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