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芥川龍之介  「ある女を昔から知っていた」2


 空虚な心の一角を抱いてそこから帰って来た。それから学校も少しやすんだ。よみかけたイワンイリイツチもよまなかった。それは丁度ロランに導かれてトルストイの大なる水平線が僕の前にひらけつつある時であった。大へんにさびしかった。

 五、六日たって前の家へ招かれた礼に行った。その時女がヒポコンデリックになっていると云う事をきいた。不眠病で二時間位しかねむられないと云うのである。

 その時そこの細君に贈った古版の錦絵の一枚にその女に似た顔があった。細君はその顔をいい顔だと云った。そして誰かに眼が似ているが思いだせないと云った。僕は笑った。けれどもさびしかった。

 二週間程たって女から手紙が来た。唯幸福を祈っていると云うのである。其後その女にもその女の母にもあわない。約婚がどうなったか、それも知らない。芝の叔父の所へよばれて叱られた時に、その女に関する悪評を少しきいた。


[大正四年二月二十八日 恒藤恭宛書簡]





 本当によく書けている。彼はそのうち小説でも書いて、夏目漱石なんかに褒められるんじゃないだろうか。まだ先のことは解らないが。






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