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新しい生活様式と剝き出しの生




 新しい生活様式という奇天烈な言葉にアガンベンの常態化する「例外状態」と「剥き出しの生」を引き寄せてしまえば、満員の山手線の車内で交わされる外国人や女子大生らの大声でのおしゃべりに対する腹立たしさがいくらかでも和らぐものであろうか。

 そうした集団が下車した途端、ゴキブリは殺せないという話を延々と続ける親子ほどの年の差のある男女が現れる。そのつぶされないゴキブリをつぶさまいとする努力を語る言葉のうちに幻出されるつぶれたごきぶりの可能性が誰かれ構わず周囲にまき散らされていることに当の二人は気が付かない。そもそも自分たち以外が無言であることの意味さえ考えられず、不意に話題を疫病の感染状況に変える。

 誰かが二人を睨みつけたからだ。それでもしゃべり続けるこの二人こそ、「剥き出しの生」で新しい生活様式という言葉の奇天烈さに立ち向かう者達だとして、立ち向かったその先に何が有り得るのだろうか。

 確かに新しい生活様式という言葉は奇天烈である種の困惑だけを表現してはいるが、そのような困惑を示さねばならない程度にこの世界ではまだ自由というものがある程度許容されているとみなしてよいだろう。

 床にガムテープで作られた適度な大きさの五角形に収まる家猫、マスクをして沈黙するサラリーマンはその程度に剥き出しの馬鹿なのだ。それはいわゆる従順さなどではなく、ごきぶりをつぶさない程度の気の弱さでしかない。彼らは精々睨みつける程度の事しかできないのだ。

 疫病の根源を睨みつけても何も変わらない。新しい生活様式にはアマビエ信仰も含まれる。一旦自由などと言い出して後に引けなくなった人間が、本当はガムテープで作られた適度な大きさの五角形に収まる家猫程度の生物でしかないことを近所の「まいばすけっと」のパートのお姉さんはまだ知らない。





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