芥川龍之介の『煙管』をどう読むか① フェティシズムとしての権威
今では考えられないことながらの、芥川龍之介という作家は最初から最後まで世間大評判だったわけではない。『羅生門』も仲間内ではぼんやりとした評価であったし、この『煙管』という小説も「乱作を始めたか」と批評されたという。
そんな批評家には『煙管』という小説が捉えきれなかったのだろう。つまり小説が作品数としてしか見えていない。『煙管』は『煙草と悪魔』との関係で言えば、喫煙者という悪魔に魅入られたものの話である。煙草が美味くなくなる話でもある。
本来長崎煙草を吸う道具である筈の煙管が、百万石の象徴として機能していること、そのフェティシズムが批評家たちには見えているだろうか。
あるいは『糸女覚え書』では「かへすがへすも奇怪なる平大名」と言われる前田利家の子孫前田斉広が主人公であることをどう見ているのであろうか。
あるいは現代の批評家は、そもそも前田斉広が喫煙者であり、職場内での喫煙は受動喫煙防止の観点から見逃し難い悪行だと批判するかもしれない。しかし問題はそこではなかろう。『煙管』は前田斉広が煙管に勝手に与えた意味が誰にも理解されないという話なのだ。
坊主は煙管を加州百万石の権威とは見ておらずただの金の装飾品として見ている。金に価値があるのであり、それを貰う相手が加州百万石の前田斉広であろうがなかろうが、ある意味どうでもいいのだ。金の煙管をせびられて上機嫌の前田斉広と坊主の間で受け渡しされる煙管は、絶対的なディスコミュニケーションを意味していないだろうか。
そもそも多作は乱作ではない。その中身が見極められないものは小説が金であるのか真鍮であるのか見極めがつかないのだ。
それにしても不思議なのはここで描かれる坊主の地位だ。
これが正確に歴史上の史実を明かしたところかどうかは私には定かではない。しかし芥川が『煙管』で描いているのは、どうも卑しいたかり屋としての坊主である。そういう意味では『煙管』は切支丹ものならぬ「坊主もの」として、つまり「坊主、あるいは仏教を批判する小説」として『鼻』、『運』に連なるものとして捉えて良いかもしれない。
本作においては坊主は卑しいたかり屋ながら、あらゆる大名を威嚇できる階級にある。これが何故のものかと言えば仏教という大嘘が、当時の日本でなにがしかの価値を持っていたからであろう。悟りを開いたのは釈迦一人なのに、坊主たちは卑しい心性のまま権力を得ていた。
坊主たちもまた徳川将軍家のフェティシズムの産物だったというわけである。そして私たちは金もまたフェティシズムの産物だと気が付かなければならない。
この遺誡の中身はこれまで様々に論じられている。ただ金の煙管の権威を貶めたことは間違いなかろう。芥川文学は常に「皮肉屋さん」の逆説で成り立ってきた。既成の価値観に対する果敢な攻撃、それが芥川作品の一つの形である。
そうして突き崩してきたところに残る、本当に価値のあるものは人の心だけだ。生きてある人の心は目の前にあり、死人の心は文字に残されている。遺誡は金の煙管より価値がある。
[余談]
石!
青空文庫の校正はなっていない。
前田家もの?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?