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芥川龍之介の『彼 第三』をどう読むか④ 遺作にならなかった


 どうもどこかにあるような気がする『彼 第三』が見つからないので、仕方なく『彼 第二』を読むことにする。

「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯を調べて貰った話は?」
「上海でかい?」
「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」
 彼は僕の顔を覗きこむようにし、何か皮肉に微笑していた。
「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」
「勿論オペラ役者にでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」

(芥川龍之介『彼 第二』)

 エンリコ・カルーソーは、バリトンではなくテノール歌手だ。

 いや、そんなことはどうでもいい。何故このタイミングで芥川龍之介は、いや「僕」は、何者にもなれなかった亡友の追憶のような話を書こうとしていたのだろうか。

 僕等はもう船の灯の多い黄浦江の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、顋で「見ろ」と云う合図をした。靄の中に仄めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩い波に絶えず揺すられていた。そのまた小犬は誰の仕業か、頸のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。
ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」
 彼はこう答えるが早いか、途方もなく大きい嚔をした。

(芥川龍之介『彼 第二』)

 白い小犬が死んでいる。芥川龍之介の中で白い小犬と云えばまずは『白』、そして『奇怪な再会』であろうか。

 それを見た「僕」は「ニニイだね。」という。ニニイは生きている。

 彼女は体こそ痩せていたものの、誰よりも美しい顔をしていた。僕は彼女の顔を見た時、砧手のギヤマンを思い出した。実際また彼女は美しいと云っても、どこか病的だったのに違いなかった。
「何なんだい、あの女は?」
「あれか? あれは仏蘭西の……まあ、女優と云うんだろう。ニニイと云う名で通っているがね。――それよりもあの爺さんを見ろよ。」

(芥川龍之介『彼 第二』)

 砧手とは青磁の最上級の種類の一つだ。何故「僕」は死んだ小犬を「ニニイだね。」という。「彼」の「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」は意味が解る。しかしこの「ニニイだね。」にはどんな意味が込められているのだろうか。仮に「僕の中の声楽家」が死を引き受け、「ニニイ」が美しさの方だけ引き受けたのだとして、やはり白い小犬の死骸に準えられる「ニニイにはには何か気の毒なものがある。

 夏目漱石の命日が近づくこの時期、芥川はその日に死ぬことを考え、またそのことを友人らに対して口にしていた。おそらく芥川は『彼』を書き、『彼 第二』を書き、誰かにとっての「彼 第三」として夏目漱石の命日に死なねばないと考えていて、本当に死ぬつもりでいたはずだ。

 なのに死ななかった。そして『彼 第三』も書かなかった。しかし『こころ』のような大作も書かなかった。バーナード・ショーは七十歳にもなってまだ書いていた。バーナード・ショーは結局九十歳まで書き続ける。

「I detest Bernard Shaw.」

 この「彼」言葉を大正十五年に二度思い出してみれば、やはりそこには「僕」の思いも重ねられてくるのではなかろうか。僕の「ニニイだね。」という言葉のうちにはそれが白い小犬の死骸であり、黒い犬ではないこと、

 そして老犬ではなく小犬であること、「美しい死」への賛辞があるのではなかろうか。それが果して『三四郎』の「美しい葬式」の感覚に近いものかどうかは解らない。

 あるいは『彼岸過迄』の「美くしいものが美くしく死んで美くしく葬られる憐れ」に近いものかどうかということもよく分からない。

 私には何も解らない。何故ケンタッキー・フライド・チキンの「とりの日パック」がいきなり100円も値上げされたのにマスコミは固く口を閉ざしているのか、そこに癒着はあるのか、真犯人は誰なのか、誰の陰謀なのか、私には解らない。

 ただ『彼 第三』が芥川の遺作にはならなかったことだけは確かだ。

 何故なら『彼 第三』は書かれていないからだ。 




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