見出し画像

その理由は後で解るだろう 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか③

 一昨日はこれまで読んできた牧野信一の小説には当たり前のように父がいないということを書いたような気がする。

 しかしそのことがどのような意味を持ち得るのか、という問題について考えるのはずっと先のことになるだろう。そこに辿り着く前に私の命は尽きてしまうかもしれない。間に合うのか?

「今ね、兄さんに解らないとこが出たのでお尋ねに行かうと思つたら、母さんが兄さんは今御勉強だから後になさい、ておつしやるので此処でお待ちしてゐたのよ。」
「学校の事なの?」
「えゝ、さう。」と云ひながら美智子は自分の室の方へ駆けて行きました。
「若し差支へがなかつたなら少し教へてやつておくれな。先程から待つてゐたんですから。」と母に云はれた私は、別に勉強も何もしてゐなかつたのを母や美智子はそんなに遠慮してゐて呉れたのかと思ふと――笑ひ度いやうな気の毒なやうな淋しいやうな……解り易く一口に云へば悪かつたといふ気がしましたので、
「ハヽヽヽ。」と笑つて「関やしなかつたのですのに。」と云ひ乍ら美智子の室へ行きました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 こういうところだ。「兄さんに解らないとこが出たのでお尋ねに行かうと思つたら」を「解らないとこが出たので兄さんにお尋ねに行かうと思つたら」に直さない。

 自然さを装う演出?

 美智子のあまり頭の出来が良くないことの表現?

 しかし牧野はきっちり仕掛けてきている。冒頭からここまでいかにも作家然として描かれてきた「私」はどうも勉強をせねばならぬ学生であったかのように見えてくる。社会人でも勉強をせぬわけでもなかろうが、「悪かつた」と思うのは、勉強をするべき義務を負った学生だからなのではないかと思えてくる。

 そしてここで行為として描かれている「遠慮」はあけすけでない丁寧な彼らの会話の言葉遣いにも現れている。「お尋ねに」「御勉強」「差支えがなかつたら」「ですのに」とこの家族の会話は品が良いともよそよそしいとも見える。その関係性はこれまで牧野が描いてきた『爪』や『ランプの明滅』や『凸面鏡』とは異なる。

 丁度私が美智子への読本の下読を終へたところへ、美智子のお友達でお隣りの艶子さんが、今日は土曜日だからといつて遊びに参りました。
「兄さん、何かお噺をして下さらない。」と美智子が云ひました。いつもこの伝は私を一番困らせる事だつたので、私は聞えない振りをして逃げ出さうとすると「あらずるいわ。この間からのお約束なんですもの、今日こそは逃がしませんよ。」と二人して無理に私を又そこに坐らせてしまひました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 随分寒い晩、だったはずである。大正九年当時、お隣とはいえ若い娘が夜よその家に遊びに行くことなど稀ではないだろうか。「今日は土曜日だから」という話でもないような気がする。何なら泊まる気なのか。
 しかし相変わらず言葉遣いは上品である。当時定着していた東京言葉、しかも女学生言葉のようである。

「僕はね。」と私はこゝですこしばかり真面目な顔になつて「ほんとに皆を喜ばせるやうな噺は仕たくとも出来ないのだ。」と云ひました。それでも二人は容易に私を許して呉れませんでした。で私は仕方がなくなつて、
「――えゝと、昔々あるところにお爺さん……」と言ひかけると二人は激しく首を振つて、
「嫌々、そんなのは。そんな古いのならわざ/\兄さんに頼まなくてもお婆さんの方が余程上手よ。」と立所に打消して、もつと新しいものをと云つて諾きませんでした。これには私もとんと当惑せずには居られませんでした。こんな事なら此間中何か西洋の物語本でも読むで置けばよかつたと私はつく/″\後悔しました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 これは雑誌「少女」に掲載された少女向けの小説の体裁である。読者である少女はおっさんと違い、優しい兄に甘える妹の話を好むだろうと、ただそれだけの都合でこんなことが書かれているのではないかと疑ってみる。もしもそうならばこの私が命を削ってまで読む必要はないのではないかと思えてきた。

 未だ八時になるかならないかといふ宵でしたのに、あたりにはまるで声がありませんでした。軒をうつ小雨の音もなく、たゞ火鉢の炭が起る音と美智子の机の上の小さな時計の音より他世界は皆眠つてしまつたやうでした。何故なら私はお噺が出来ないで黙つて考へ込むでしまつたし、二人は私の話し出すのを今か/\と息を殺して待ち構えてゐるのですもの……。
 こゝでちよいと皆様に説明しなければならないのは、美智子の室に可成大きな二つ折りの金屏風があることなのです。それに恰で本物の様に美しい孔雀が一羽描いてあります。然し全く孔雀がたつた一羽金泥の上に描いてあるといふだけで、その他には花も木も草も何にも描いてないのです。ですから丁度別の処から孔雀の画を切り抜いて来て金箔の上に貼り付けたと云つても差支へない位でした。がそれだけに孔雀は単独のものになつてゐて、見方に依つてはまるで孔雀が美智子の室にぼんやりと訪れて来てゐるやうに見えるのでした。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 芥川龍之介は小説が上手く進んでいかないときには風景描写をすればいいと書いている。「私」もお話がうまくできないので描写にながれたかとみると、たちまち孔雀が出てくる。これなんてタイトルだった? そう『嘆きの孔雀』だよ、と言わんばかり。枕が長くてごめんねと言わんばかり。会話を切って、そのわずかな瞬間の中に説明を滑り込ませる。

 そしてこの金屏風は奇妙なものだ。

 この説明だと、

①金屏風は二つ折り
②描かれているのは大きな孔雀一羽

 ということなので孔雀は二つに折れていることになる。

 そりゃ嘆くわ、ともう落ちが付いたようなものである。

 しかし話は続いていく。

「美智子さん、私は遠い印度の国からわざ/\貴方にこの私の美しい羽毛をお目に掛けに参りましたのですから――そのおつもりで。さあよく見て下さい。さうして私の国はこの美しい私が羽根を拡げて闊歩するにふさはしい程素晴しく立派であることを連想して下さい。そのために私はわざとこうして何にも描いてない屏風の前にたつた一人でたゝずむで居るのです。私の体のやうに美しい背景は、とてもこんな小ぽけな屏風には描けませんからね。」屏風の孔雀を凝つと見てゐると、その孔雀は今にもそんな事でも言ひたさうな顔付をしてゐるやうに見えました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 いきなり日本批判か、というようなことをやってくる。日本は素晴らしく立派ではないのか。まあ、そういう時期か。それにしてもすらすらと何でもないように書いていくものだ。

 私はその時お噺がどうしても出来なかつたので屏風の方へ顔を向けて、別にお噺を考へてゐたわけでもなかつたが、せめて考へてゞもゐるやうな風をしてゐなければとても二人が許して呉れさうもなかつたので、黙つて孔雀の画を瞶めて居りました。
「この絵の孔雀に若しなつたらどうでせうね。」「だつて大変だわ。屏風にされてしまふんですもの。動きがとれないじやありませんか。」私が余り話し出さないので二人は少し飽きてきたのか、そんなつまらない話をして可笑しさうに笑つて居りました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 しかしいかにも中身というものがないな。何の事件も起きないし、主人公に目的がない。ただ状況に流されていく。目的がないと意味が生まれない。だからナンセンスになる。「つまらない話」にもなる。

 何燭か知りませんが兎に角非常に明るい電灯が昼間のやうに紅色の覆の下に輝いてゐました。さうして室はもう充分暖たまつて居りました。春が急に来たのではないかと怪むだ程でした。私はその明るい室で黙つてゐる間に、いつか私の心はある不思議な世界に飛んで居りました。冬の夜で暖まつた明るい室と金屏風と孔雀とさうして晴れやかな少女の笑声とが私をある美しい国に運むで呉れたのでした。といつても春の楽園で美しい姫等が、孔雀と戯れてゐるところとか、銀河の流れに緑の岸を伝ひほがらかな女神が琴をかなでゝゐるところとか、などゝいふ古雑誌の口絵のやうなだれでもがすぐに想ひ浮べるやうな光景ではありません。――それは余り奇抜で予想外で皆さんは屹度アツと云つてお驚きになるに異ひありません。――で私は急に嬉しくなりました。皆さんは何とおつしやるか知れませんが兎に角美智子と艶子さんを喜ばせることが出来るだらう、と私は安心しました。私の心は明るい電灯のやうに輝き、私の胸は孔雀の美しい翼の如く喜びにふるへました。それ程この瞬間に思ひだしたあるお噺――といふより私がある世界に引き入れられたその空は不思議な色で輝いて居りました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 と思いきやいきなり自分でハードルを上げてきた。長い前置きだった。しかしこれからいよいよ不思議な世界が語られようというのだ。それはきっとあっと言って驚くようなものなのだ。そんなにハードル上げて大丈夫かなと心配にもなるが、それが本当に不思議なものなのかどうかは間もなく答えが出るだろう。

 ただし用事があるので今日はここまで。

[附記]

 全くうまいんだか何なのか解らない。書けないワナピーが苦心しているように見えなくもない。この作品に関してはここまで言葉の丁寧さ以外に隠れている設定はないと思う。全員全裸なら話は別だが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?