母はいる 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか②
見違えるほどに生い茂った砂浜のカラスは、革命家気どりの電化製品によってお試し期間を待たずに解放されようとしてた。メロン水の苦悩は春雨色の漏斗となり、雨樋を伝う守銭奴の眦を紡いだ。カムサムニダ、アニョンハセヨ、朕の言葉は地に落ち、すし詰めのバッテラに凌辱された。
こんばんわ。小林+之助です。近代文学2.0をやってます。
平たく言えばデスねえ、牧野信一は自分の少しおかしいをうまく利用して、適当に話を書いているようなところもあるんじゃなかと思うんですね。懊悩みたいなものではなくて、系列で言えば内田百閒や深沢七郎の側で、谷崎潤一郎ではないと思うんですよ。
最初牧野信一は中島敦同様ナンセンス作家だって書きましたけれど、漢字博士の中島敦と違って、牧野信一の文章はなんというかこの、ところどころ「へたくそ」に見えますね。「稚拙」というか。そもそも正しくない。それも本人は大して気にしていないんでしょうね。というより、気がついてさえないのかもしれません。
しかし全然書けないわけではなくて、小細工はやってきますね。読むほうは大変ですが、説明を飛ばしてくる。ずぼらなところを武器にもしてくるわけですよ。それが芥川みたいな「知的な捻り」とは全然違う。
少し空想に沈みかかりながら現実は失わないわけですよ。湖の底ではたばこは吸えませんし、魚は手がありませんから咥え煙草で吸うしかありませんが、そもそも吸わんでしょうなあ、煙草は。だから「夢から無理に醒めてはみても」というのは大げさなわけですよ。正しくない。花を藻に見立てるのは無理がある。梧桐の葉は魚の形をしておらんのですよ。ただ無理を放り込んでくる。今新人作家がこれをやるとなかなか掲載してもらえんでしょうな。今の若い子はファンタジーでも整えて書きますよ、うまい具合に。その調整してくる感じそのものがこの時期の牧野には殆どないんですね。
たとえばここ、「いつまでこうして居ても限りがないから」ってそりゃそうでしょう。いつまでも、なので。ここベテラン編集者ならさーっと線引いて落としますよ。
それから「室を大変散らかしたまゝ」とありますが、机の前で原稿を書きかけで煙草を吸ってただけですから、灰皿は汚れていたとして書きかけの丸めた原稿用紙が散乱しているわけでもないわけですよ。何か散らかした様子もないのに、「大変」と書いていますね。これ、なんだかわからない書き方ですね。
そして「茶の間へ行きました」って書いて、階段を下りてとは書かれていないことから水平移動に見えますよね。これまで「道子もの」では主人公の部屋が二階だったじゃないですか。だからこの水平移動に見える感じというのもちょっと引っかかるところです。
でまた母と妹で、今度は妹の名前が「道子」ではなくて「美智子」になっています。なんというかスライダーですよね。微妙な横の変化。こういう書き方をされると、なじみの読者はあれとこれとの関連付けの中で読んでしまうということがあるんでしょうね。
実際牧野信一になじみの読者がいたかどうかは別として、書いている本人の中では少しずつずらしている感覚はあったんでしょう。つまり、ある程度実体験と言うか本人の設定そのもので、やはりなんとなくずっと「父の不在」というものはあるわけですよ。家庭というものはそういうものだという感覚、三島由紀夫の言うところの「息子の文学」ではあるわけなんですが、牧野の場合「母の息子の文学」なんですね。しかしこれまでのところ設定としての「父の不在」というものがない空気であって、物語的にも心情的にもさしたる意味を持ち得ていないんですね。
言ってみれば欠落感がない。
なんというか当たり前の不在なんですよ。だからそこは主題でもなんでもないわけですね。
とりあえず母はいると。しかし母に過剰に依存するわけでもないと。これまでのところ妹あるいは姉?としての道子への依存というものはもう気持ち悪いくらいにあったわけなんですが、母とは何故か直接接しない。あくまで道子との会話の中で母はいたわけでしたよね。
今度は直接母と対峙するようです。
ではどう対峙するか。それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
[余談]
初期作品は露悪的という話があるけど、一体どこをどう見ているのだろう?
それは三島由紀夫が腹切フンドシみたいな話なのか?
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