一昨日はこれまで読んできた牧野信一の小説には当たり前のように父がいないということを書いたような気がする。
しかしそのことがどのような意味を持ち得るのか、という問題について考えるのはずっと先のことになるだろう。そこに辿り着く前に私の命は尽きてしまうかもしれない。間に合うのか?
こういうところだ。「兄さんに解らないとこが出たのでお尋ねに行かうと思つたら」を「解らないとこが出たので兄さんにお尋ねに行かうと思つたら」に直さない。
自然さを装う演出?
美智子のあまり頭の出来が良くないことの表現?
しかし牧野はきっちり仕掛けてきている。冒頭からここまでいかにも作家然として描かれてきた「私」はどうも勉強をせねばならぬ学生であったかのように見えてくる。社会人でも勉強をせぬわけでもなかろうが、「悪かつた」と思うのは、勉強をするべき義務を負った学生だからなのではないかと思えてくる。
そしてここで行為として描かれている「遠慮」はあけすけでない丁寧な彼らの会話の言葉遣いにも現れている。「お尋ねに」「御勉強」「差支えがなかつたら」「ですのに」とこの家族の会話は品が良いともよそよそしいとも見える。その関係性はこれまで牧野が描いてきた『爪』や『ランプの明滅』や『凸面鏡』とは異なる。
随分寒い晩、だったはずである。大正九年当時、お隣とはいえ若い娘が夜よその家に遊びに行くことなど稀ではないだろうか。「今日は土曜日だから」という話でもないような気がする。何なら泊まる気なのか。
しかし相変わらず言葉遣いは上品である。当時定着していた東京言葉、しかも女学生言葉のようである。
これは雑誌「少女」に掲載された少女向けの小説の体裁である。読者である少女はおっさんと違い、優しい兄に甘える妹の話を好むだろうと、ただそれだけの都合でこんなことが書かれているのではないかと疑ってみる。もしもそうならばこの私が命を削ってまで読む必要はないのではないかと思えてきた。
芥川龍之介は小説が上手く進んでいかないときには風景描写をすればいいと書いている。「私」もお話がうまくできないので描写にながれたかとみると、たちまち孔雀が出てくる。これなんてタイトルだった? そう『嘆きの孔雀』だよ、と言わんばかり。枕が長くてごめんねと言わんばかり。会話を切って、そのわずかな瞬間の中に説明を滑り込ませる。
そしてこの金屏風は奇妙なものだ。
この説明だと、
①金屏風は二つ折り
②描かれているのは大きな孔雀一羽
ということなので孔雀は二つに折れていることになる。
そりゃ嘆くわ、ともう落ちが付いたようなものである。
しかし話は続いていく。
いきなり日本批判か、というようなことをやってくる。日本は素晴らしく立派ではないのか。まあ、そういう時期か。それにしてもすらすらと何でもないように書いていくものだ。
しかしいかにも中身というものがないな。何の事件も起きないし、主人公に目的がない。ただ状況に流されていく。目的がないと意味が生まれない。だからナンセンスになる。「つまらない話」にもなる。
と思いきやいきなり自分でハードルを上げてきた。長い前置きだった。しかしこれからいよいよ不思議な世界が語られようというのだ。それはきっとあっと言って驚くようなものなのだ。そんなにハードル上げて大丈夫かなと心配にもなるが、それが本当に不思議なものなのかどうかは間もなく答えが出るだろう。
ただし用事があるので今日はここまで。
[附記]
全くうまいんだか何なのか解らない。書けないワナピーが苦心しているように見えなくもない。この作品に関してはここまで言葉の丁寧さ以外に隠れている設定はないと思う。全員全裸なら話は別だが。