見出し画像

割合に呆然とした 牧野信一の『凸面鏡』をどう読むか⑧

 ――この俺の顔を鏡に写して見度い……と彼は道子の指先からこの瞬間羞恥の果へ落ちて――割合に呆然とした。
「ほんとなの、純ちやんは……」
「ほんとだとも。」
「勝手になさい。妾はもう知らないツ。こんな馬鹿じやないと思つた。」
「何云つてやがるでえ。」彼は自分ながら落着いた憎々しい口調で「どつちが馬鹿だ。」と云つた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 割合に呆然とした、

 指先から羞恥知の果に落ちて、 

 完全にわからないわけではないが完全には解らない。まだ直腸にうんこが半分残っている感じだ。下半身を蛇に飲み込まれて仕えているカエルのようなものだ。

 やがるでえ、は中里介山、小栗風葉、神田伯山他使用例があるが、少なすぎて江戸弁とも決めかねる。それにしてもこの感情のふらふらした様子にはついていけない。

 どうしてほしいのか分からない。せめて肉欲の方に流れればわかる感じがするのだが、どうも精神に留まっている。その感じがもどかしい。しかも二人の関係性は「たつた二年足らずではあるが、全く姉と弟のやうにして同じ家で暮した」というところで寸止めにされていて、実際はどんなものだというところがまるで見えてこないのである。

 兄の病気の為によくないから、と云つて母は家中の鏡と顔の写る塗物類などを秘して仕舞つた、彼の凸面鏡もその一つとして選ばれた時、彼は妙な寂しさを感じて、
「阿母さん、そんなことは迷信ですよ。」と笑ひ乍ら云つたが、母の意の儘に彼はそれを母の手へ渡した。道子の結婚が無事に済むだ後だつた。
 兄は桜の花が散り終へた頃には病勢が益々募つて到々脳病院へ入れられた。

(牧野信一『凸面鏡』)

 こんな始末だ。では兄が脳病院に入れられる前には何をしていたのかと書かれていない。仕事をしていたのかどうか。

 まてよ、そもそも兄と純は血がつながっていて、道子は二年だけこの家に同居していただけの年上の女なのか?

 しかし嫁入り前の女が、男が二人もいる家に下宿する?

 しかも「殺すぞ」とか言われて。

 ちょっとこれは設定として成立しないんじゃないかと言ってみても仕方ないか。兎に角そういう話なんだから。

 この成立するしないの話で言えば、何か決定的な事情が隠れていると考えるしかないようなところがないとは言えないよね。じつはこれ侯爵家の話で、道子は行儀見習いの女中としてこの家で暮らしていたとかね。

 まあ、そんなことはないというのは解るけれど、どう考えても絶対にありえないということではなくて、明らかに説明が欠けているわけだ。ただ何かもっともらしい事情があるかもしれなけれど、思いつかない。

 そして何もかもが曖昧なまま、終わってしまうような気がする。私の人生のように。私の人生もなにもかも曖昧だった。結論は出なかった。まるでエンターキーのパネルが取れたキーボードでnでnoteを書きづけるような人生だった。フィンランドパンとニラと豚肉の炒め物を食べるような人生だった。

 間もなく友から電話が掛つて来た。
「今ね君の後を追ひかけやうかと思つてゐたところなんだよ。」
「多分そんな事だらうと思つてね。」
「ぢやすぐ行くよ。」
 春か! と彼は、ステツキを振りながら呟いだ。
                          (八年四月)

(牧野信一『凸面鏡』)

 終わってしまった。

 ……。

 ……。

 これは冒頭のシーンに続くもので、一年後の純もやはり夜顔をそり遊び惚けているという落ちか。

 はっきりとは書かれていないがやはりここで純は一人暮らしのような感じがある。阿母一人残して家を出たのか。

 それとも母は殺されたのか。

 この最後のシーンに母の気配はまるでない。

 結局道子との関係性は分からないように書かれているので、この作品の理解としては一分間の恋をどこにあてはめるかというところに尽きるのではなかろうか。

それは彼が恋をした最初の瞬間、同時に失恋をしたところの道子を思ひ出したのであつた。一分間の中で、恋をして、失恋をして、さうしてその悶へと、恋の馬鹿々々しさとを同時に感じて、然もその同じ一分間を何辺となく繰り反した「ある期間」を道子の前に持つた事がある、と彼は思つてゐたから

(牧野信一『凸面鏡』)

 この一分間の恋は、

「あゝないよ。」
 火鉢に翳して細かに震へてゐる白い道子の指先から、その上気した奇麗な頬を想つた刹那、彼は穴へもぐり度いやうな羞恥を感じた。たつた二年足らずではあるが、全く姉と弟のやうにして同じ家で暮した道子に、「実は僕は姉さんに恋してゐるんだよ。」と云つたら――とてもそんなあり得べからざる光景は想像すら冷汗を覚ゆることで――でも、道子がどんな顔をするだらう、とまで思はずには居られない……と思ふと、――思ふさへ余りにとてつもない滑稽で、その前の晩なども、冷汗さへ許されぬ冷汗から、堪らなくなつて急いで電灯を消して、亀の子のやうに四肢をかじかめて床へもぐつた、馬鹿、馬鹿、馬鹿、と慌てゝ口走つた――この俺の顔を鏡に写して見度いと思ひながら。鏡に写した顔を、様々に――こんな顔も出来るものかなと思つた程、変つて、少しも笑ひたくならず……其儘凝と視詰めた……道子を想つた後は……。
 ――この俺の顔を鏡に写して見度い……と彼は道子の指先からこの瞬間羞恥の果へ落ちて――割合に呆然とした。
「ほんとなの、純ちやんは……」

(牧野信一『凸面鏡』)

 ここらあたりのことなんだろう。秘めていたというより無自覚で、真正面から向き合うこともできずに、たちまち取り消されるようにしてこの恋は散っている。

 そういう意味ではこれは、自分の気持ちなどというものが、そうやすやすとつかみ出せるものではないというスタンスから書かれた小説であり、馬鹿はどっちだという小説である。

 今言われたの、あなただよ。

 牧野信一がね、あなたに言ってるの、馬鹿はどっちだって?

 つまり友人は純の心変わりを予測していたわけだ。人間の感情なんてブレブレで、すぐに変わるものだと理解していたわけだ。

 で最後の「呟いだ」って何よ?

 気がついてた?

 呟いだ、って言う?

 言う。

 そりゃどうもすんずれいすましだ。

[余談]

 これはあくまで予想に過ぎないのだけれど、これからも何度か道子は現れて関係性が解らないまま話は終わったりするんだろうな。次に道子が現れるのは君の住む町かもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?