一年も十八年も同じ事だ 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか①
天保二年は1831年である。神田同朋町は今の外神田二丁目14番。
式亭三馬の『浮世風呂』は文化6年(1809年)から文化10年(1813年)にかけて刊行されているので、「何年か前に出版した滑稽本」と書かれているが既に十八年経過していることになる。
ここで言われている「神祇、釈教、恋、無常」とは、そのまま文字通りに受け止めることもできなくはないが、虱の句を集めた高野百里編の『銭龍腑』という俳諧集にある発句のモチーフの並びとたまたま同じであり、「祝」と「虱」が抜けている。
芥川の意識はともかく、式亭三馬としては『銭龍腑』を意識したところであろうし、「神祇、釈教、恋、無常」とは発句のモチーフだと考えてよかろう。
歌祭文とは近世に行なわれた俗曲の一種。遊里の歌も多い。歌っているのは男である。
本多というのも髷の種類で本多さんが風呂にいたわけではない。文身には「ほりもの」とルビがある。刺青のことだ。
由兵衛奴を「詐欺師」とするweb辞書があるけれど、これも髪形で「わざと毛を薄くした」幇間などのヘアスタイル……江戸時代は基本職業によって髪形は決まっていた。
虻蜂蜻蛉も髪形の一種。前髪、まげの刷毛先、左右のびんの毛先を細く出し、中央へ向けたもの。丁稚や小僧の髪型だ。
しかしいきなりわからない。
いや、これではなくて、そもそもなぜ男だけなのだろう。
なぜ芥川は混浴を避けたのか。昔の風俗を書いて取り締まられるという方もなかろう。セーラームーンが好きでも、それは人の好みの問題なので性加害云々の話にはなるまい。
まあそれは式亭三馬が男湯と女湯を分けているからか。
明治十八九年頃までは硝子戸越しに女湯は覗けば覗けたようだ。式亭三馬の時代は硝子戸はともかく、同じようなものであろう。
湯屋の拍子木とはやはり火の用心の拍子木?
しかしこうした時代の風俗はどんどん失われ、意味が解らないものになっていく。
三助への合図のようだ。と言っても今はもう三助もいないので困ったものだ。
そしてやはり「六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう」これはおかしい。何度読み返してもおかしい。これが芥川?
確かに芥川だ。つまり「身長二メートルあまりの老人が一人あつた。身長は二メートルを越してゐよう」というようなものだ。うむむ。「月500円は増税ではない。『国民の皆様に負担をお願いする』というものです」というくらい意味が解らない。
これは一体どうした事か。
この「六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう」の最初の「六十」という属性が、脈拍ではないとしたら?
体重では重すぎる。知能指数では低すぎる。
ではそれは一体何なのか?
それは六十余州つまり日本の国土のことで、「日本人の老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう」という意味?
さすがにそれはなかろう。
ここは筆のすさびだ。
それが敢えてのものか、単なる凡ミスなのかはその先を読まないと解らない。
読んでも解らない。
これは確かに芥川の文章だ。桶を見て、空を見る。赤い柿が見える。「疎らに透いた枝を綴つてゐる。」この「綴つてゐる」が芥川だ。誰でもあざとらしくは書けるが、それをさらっと書けるのが芥川だ。
大正六年十一月の作である。
漱石の死から一年がまもなく経とうとしているそんな時期、ただし本人は絶好調ではないながらいよいよ本格的に売り出そうとしていたこの時期、「何十年来、絶え間ない創作の苦しみにも、疲れてゐる」老人を見つめてみる。おそらくそこには芥川の未来ではなく、わずか十年とは言えすさまじく文学と格闘し、最期もなお前のめりに死んでいった師、漱石の「老いの姿」というものが重ねられていよう。
あえて画像は貼らないが、臨終間際の漱石は四十代とはとても思えない、どう見ても七十過ぎのおじいちゃんである。「四十九歳の老人が一人あつた。しかし見た目は七十を越してゐよう」こう言ってけして大げさなものではないのだ。見なければよかったと後悔する人もいるだろうから、無理に画像を探すことはやめておいた方がいい。
「死期の師匠の不気味な姿に嫌悪を覚えた」という芭蕉に向けられた其角の厳しい言葉は、冷徹な観察者の立場から見れば漱石にも当てはまるものかもしれない。
残酷なようだが確かに老人は醜い。老いは醜い。誰もが死ななければ老いる。その代わりに静ながら慕はしい、安らかな寂滅の意識に近づくことができるのだと芥川は主張している。安らかな寂滅、それはたった十分間水の中にいることで達せられるものだ。「子供のやうに夢もなく眠る事が出来たならば、どんなに悦こばしい事であらう」とは死後の世界をきっぱり拒否している。天国も地獄もなく、人は何かに生まれ変わりもしない。
ただこの時の芥川はまだ意気揚々、生活の疲れも「何十年来の絶え間ない創作の苦しみ」もない。まだ独身でやりたい放題。死など遠く遥かな未来だと考えていた筈だ。
滝沢瑣吉は馬琴の本名ではない。本名は「滝沢興邦」、瑣吉はいくつかある通称のうち一つである。メイプル超合金のカズレーザーは馬琴を「曲亭馬琴」と呼ぶ。戯作者としての馬琴の呼び方としてはこれが正しかろう。
あれこれ調べてみると芥川は「滝沢瑣吉」を馬琴の本名だと教わっていた可能性が高い。
そして馬琴の没年に気が付く。漠然と長生きのイメージはあったが…… 1831から1767を引くと64だ。しかし馬琴はまだまだ死ない。馬琴は嘉永元年11月6日、1848年12月1日になくなる。1848から1831を引くと17。
つまり馬琴はこのあと十七年も生きることになる。「天保二年九月の或午前である」という書き出しの時点で、芥川はもう仕掛けていたわけだ。
なんというやり口だろう。
大正六年は1917年。芥川はこれから十年後の1927年に亡くなる。なんだか馬琴より芥川の方が早く死んでしまうような錯覚に陥る。
馬琴が夢もなく眠る事が出来るまでにあと十七年もかかると言う所に引っかかって、え、長すぎない?と思ったところで今日はこれまで。
[余談]
ウィキペディアには書かれていないが宝暦十年九月、本居宣長は村田フミと結婚十二月に離婚。翌年の七月には草深タミに結婚の申し入れをして、十一月に結納、十二年一月に結婚している。ウィキペディアには「宝暦13年(1763年)2月3日、春庭が生まれる」と書かれていて、え? 誰の子となるはずのところ。
みんな「ふーん」している。
そういうところだよ、と言いたい。
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