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芥川龍之介の『三つの窓』をどう読むか⑤ 最晩年の心境の反映ではない

 芥川龍之介の手帳のメモ、それもちょうど『鬼ごっこ』に関するものと思われるメモのすぐ前にこんなことが書いてある。

三つの死。戦死。水死。狂死。

芥川龍之介全集

 吉田精一はスルーしているが、これは『三つの窓』の「2 三人」に関するものであろう。

 この海戦の始まる前夜、彼は甲板を歩いているうちにかすかな角燈の光を見つけ、そっとそこへ歩いて行った。するとそこには年の若い軍楽隊の楽手が一人甲板の上に腹ばいになり、敵の目を避けた角燈の光に聖書を読んでいるのであった。K中尉は何か感動し、この楽手に優しい言葉をかけた。楽手はちょいと驚いたらしかった。が、相手の上官の小言を言わないことを発見すると、たちまち女らしい微笑を浮かべ、怯ず怯ず彼の言葉に答え出した。……しかしその若い楽手ももう今ではメエン・マストの根もとに中った砲弾のために死骸になって横になっていた。K中尉は彼の死骸を見た時、俄に「死は人をして静かならしむ」と云う文章を思い出した。もしK中尉自身も砲弾のために咄嗟に命を失っていたとすれば、――それは彼にはどう云う死よりも幸福のように思われるのだった。

(芥川龍之介『三つの窓』)

 これが一つ目の死、戦死だ。

 海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を挙げ、何かおお声に叫んでいた。ブイは水兵たちの罵る声と一しょに海の上へ飛んで行った。しかし勿論××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろす訣には行ゆかなかった。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだった。彼の運命は遅かれ早かれ溺死するのに定っていた。のみならず鱶はこの海にも決して少いとは言われなかった。……

(芥川龍之介『三つの窓』)

 作中ではこれも戦士と呼ばれているが、これが「水死」であろう。そうなると三つ目の死を芥川は「狂死」として書いたのだということになる。

「おれはただ立っていろと言っただけなんだ。それを何も死ななくったって、……」
 ××の鎮海湾へ碇泊した後、煙突の掃除にはいった機関兵は偶然この下士を発見した。彼は煙突の中に垂れた一すじの鎖に縊死していた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も焼け落ちたために下っているのは骸骨だけだった。

(芥川龍之介『三つの窓』)

 私はこの三っ目の死が、

 甲板士官はこう答えたなり、今度は顋をなでて歩いていた。海戦の前夜にK中尉に「昔、木村重成は……」などと言い、特に叮嚀に剃っていた顋を。……

(芥川龍之介『三つの窓』)

 木村重成にちなんだ強烈なブラックジョークだとみなしている。薫陶化育にしくじって燻製もできそこなったのだ。

 人を教え導くことの困難さは教師になり切れなかった芥川の最もよく知るところであろう。だからこそ三人目の死は「狂死」でなければならなかったのだ。

 芥川の手帳にはまだ書かれていない作品のアイデアが詰まっており、ネタ切れで死んだという俗説だけは確実に覆してくれるものになっている。同時に昭和二年六月十日の作とされているこの作品が、案外早く着想されていたのではないかという話でした。

かゝる考を助けたのは、芥川龍之介の言である。彼は小說の命は二三十年位のものであると書いてゐる。そして明治時代は既に二十年の彼方にある。

芥川龍之介氏の諸作品は、題材を屢々平安朝鎌倉室町の時代に取つて居り、「邪宗門」や「地獄變」や「芋粥」などに見る如く、その表現はかの古き時代を彷彿せしめるばかりに現實的である。

芥川龍之介氏にせよ、菊池寛氏にせよ、彼等の取り扱つた俊寛·盛遠·良雄·忠直等々の人物が、如何にしてかの如き時代にかの如き生涯を有しなければならなかつたかといふ點に就いての認識は、何等興味の無い點であつた。


文学の発生
風巻景次郎 著子文書房 1940年


美以久佐 : 詩集 室生犀星 著千歳書房 1943年

 夏日のあなただよ。

芥川龍之介君が自殺した時それをブルジョア·イデオロギイの行詰まりと解釋した人が多かつた。生田春月の自殺を以て、アナアキズムの破綻を論證する人が必ずあるであらう。僕は今この問題に觸れようとは思はない。

郊外通信 : 随筆小品など 加藤武雄 著健文社 1935

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