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谷崎潤一郎の『金と銀』を読む 鰻飯ではなかった

 主人公青野は美術学校を卒業した貧乏人のようである。去年の夏仮装会をやるといって友人の今村から外套と薩摩上布を借りて、質に入れて姿をくらましてしまった。今村から撲られるのではと冷や冷やしていた。が、一年後今村は新しいインバネスを着て歩いている。余裕がありそうだ。
 青野は唯一の親友大川を訪ねて、牛肉でもごちそうになろうと空想している。その実金を無心に行くのである。青野は人格ゼロの男である。
 何々、これは『前科者』の焼き直しではないか。
 青野は大川から珍しい絵を借りて売り払い、露見しても頭を搔いて誤魔化すどうしようもない男である。青野は大川の嫉妬心に乗じてパトロンに仕立て上げる。

「たゞ今先生は仕事をやりかけて居らつしやいますので、失禮でございますか御飯を召し上りながら、もう少々お待ち下さいますやうに。」
 やがて書生が這入ってきて、かう云ひながら机の上に食事の用意を整へるのを、靑野は面をふくらせながら見守つて居た。あんなに戀ひ憧れていた牛肉のあてが外れて、其處に竝べられたものは錦手の大きな井と、細根大根に赤光其にあしらつた漬物の小皿とに過ぎなかつたのである。天どんとも、五もくとも鰻飯とも、想像される其の入れ物を、彼は恨めしさうに横眼で睨んで、せめて鰻であつてくれゝばいゝなどゝ思つたりした。(谷崎潤一郎『金と銀』)

 丼は天丼だった。なるほど天丼が仕掛けられている。
 

 大川は青野に二百円の金で組の正直を買おうと言い出す。大川は確かに嫉妬心から青野と付き合ってきたと告白する。では青野はどういう気持ちで大川と付き合ってきたのか正直に話せという。
 青野は自分の腹の中は発酵したごみ溜めみたいなものだという。二人は互いに利用する者、利用される者であることに納得した。
 と、大川は気が付く。二人の死後、青野の天才は世に認められ、その天才を嫉妬し、敵視した、ある凡庸な、通俗な、一人の画家として自分の名前が後世に伝わったらと。『アマデウス』のサリエリの心境か。
 

自分には世間の善人どもに數等勝つたいゝ物がある。其れは決して自分の本當の願ひではない。彼等の夢にも知らない、とても理解の出來ない、貴い境地がある。此の世の中の凡べての物にも換へ難いほどの價値を持つた、藝術の天地がある。(谷崎潤一郎『金と銀』)

 こんな自負を持つ天才・青野は絵が完成に近づくにつれ、大川に殺されるのではないかと考え始める。青野とモデルの榮子の関係も次第に明らかになる。榮子は先に大川のモデルをやっていた。青野は例によってマゾヒストで、榮子から金をむしり取られていた。大川は案の定青野を殺そうとする。タイトル『金と銀』は将棋の駒で、青野と大川のことだ。銀の大川は金の青野を食って金になろうとする。しかし果たせず、青野は記憶を失い白痴になるに留まる。
 それでも大川の絵は青野のそれを凌駕し、モデルの榮子の評判も上がった。

だが、フツト·ライトの光の中を飛び狂つて居る彼女が、永遠の國の女王の形を模造した、不完全な影に過ぎないのだと云ふ事を、白痴の青野より外に、誰が知って居る者があろう。(谷崎潤一郎『金と銀』)

 この結びはまた国母を恨む響きを持つと同時に、谷崎の芸術論、ドミナ論でもあるのだろう。本物はイデアであり、実体は常に不完全な影であるしかないのだ。
 そしてまた読者は言うだろう。
「せんせは本当にお気の毒ですなあ。本物の天才やのに貧乏でご苦労なさって、お友達に首絞められて白痴にならはって、大変でしたなあ。」
 いや、これは小説で本当の話じゃないんだよと弁解しても無駄である。こう芸術家だの天才だのと繰り返し持ち出された日には、自然主義より赤裸々な告白に見えてしまうのは仕方ない。その思わず「反復」と口を滑らかしかねない天丼的設定によって、マゾヒスト、悪魔派、天才と、谷崎潤一郎のキャラクターが固められつつあることは間違いない。せめて鰻であつてくれゝばいゝなどゝ思つたりした読者が次の作品を読んでどう思うのか、私はまだ知らない。何しろ次の作品をまだ読んでいないのだ。
 



【余談】

 大正七年七月、この作品が発表されたのはまさに米騒動の時期に当る。米騒動自体はどかんと一気に始まったというよりは、じわじわと盛り上がった出来事のようだ。
 芸術家が食い詰めるという以上に本作には米騒動の影響は見られない。むしろ、マアタンギイという汚穢の民の崇める女神を描くことによって、何か強烈な皮肉をかましてやろうという下心が見える。米の値段云々の些末な現象ではなく、この國の在り方の根本のところに文句があるとしか思えない。そうでなければわざわざマアタンギイなんか持ち出す必要はないのだ。

 マータンギーは象王とも訳される。象王はやはり将棋の駒で角のように斜めにどこまでも進めるほか、縦横にニマス動くことが出来る。





 あのさ、いい加減、本買ってくれないかな。こまるんだよね。買ってくれないと。



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