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芥川龍之介の『雛』をどう読むか① 何かが瓦解した 

 人生はあっという間だが、『舞踏会』の一夜で明子の人生が終わってしまったわけではない、と昨日書いたような気がする。

 そして開化ものと呼ばれている芥川作品は『開化の殺人』と『開化の良人』だけではなく『舞踏会』と『雛』と『お富の貞操』があるが、『雛』が開化ものと呼ばれているのは『明治』の改稿であるためで、これまでの分類では抜けている『南瓜』が開化ものの中心だと書いたような気がしていたが、『南瓜』のことしか書いていなかった。

 今敢て『舞踏会』の後に『雛』を読み返してみれば、語りの位置を伏せて書きはじめられた『舞踏会』に対して、『雛』は冒頭であからさまに老女の回顧であることが告げられていることが目に付く。

 つまり人生がはかないものなのかどうかは別にして、兎に角語りの場と語られる場の間に長い時間の経過と云うものが挟み込まれていることになる。そこに『糸女覚え書き』のような皮肉がこめられているのかどうかはまだ解らない。

 何故ならまだ最初の一行を読んだけだからだ。その次の行も読んでみよう。

 ……横浜の或亜米利加人へ雛を売る約束の出来たのは十一月頃のことでございます。紀の国屋と申したわたしの家は親代々諸大名のお金御用を勤めて居りましたし、殊に紫竹とか申した祖父は大通の一人にもなつて居りましたから、雛もわたしのではございますが、中々見事に出来て居りました。まあ、申さば、内裏雛は女雛の冠の瓔珞にも珊瑚がはひつて居りますとか、男雛の塩瀬の石帯にも定紋と替へ紋とが互違ひに繍ひになつて居りますとか、さう云ふ雛だつたのでございます。
 それさへ売らうと申すのでございますから、わたしの父、十二代目の紀の国屋伊兵衛はどの位手もとが苦しかつたか、大抵御推量にもなれるでございませう。何しろ徳川家(とくせんけ)の御瓦解以来、御用金を下げて下すつたのは加州様ばかりでございます。それも三千両の御用金の中、百両しか下げては下さいません。因州様などになりますと、四百両ばかりの御用金のかたに赤間が石の硯を一つ下すつただけでございました。その上火事には二三度も遇ひますし、蝙蝠傘屋などをやりましたのも皆手違ひになりますし、当時はもう目ぼしい道具もあらかた一家の口すごしに売り払つてゐたのでございます。

(芥川龍之介『雛』)

 なるほど「徳川家(とくせんけ)の御瓦解以来」なので開化ものというわけだ。「御用金を下げて下すつた」とはいわゆる払い戻しのことだろうか。幕府が無くなったのだから御用金もうやむやにされたということなのだろう。うむこれは幕府批判だ。剣呑である。

 其処へ雛でも売つたらと父へ勧めてくれましたのは丸佐と云ふ骨董屋の、……もう故人になりましたが、禿げ頭の主人でございます。この丸佐の禿げ頭位、可笑しかつたものはございません。と申すのは頭のまん中に丁度按摩膏を貼つた位、入れ墨がしてあるのでございます。これは何でも若い時分、ちよいと禿げを隠す為に彫らせたのださうでございますが、生憎その後頭の方は遠慮なしに禿げてしまひましたから、この脳天の入れ墨だけ取り残されることになつたのだとか、当人自身申して居りました。……さう云ふことは兎も角も、父はまだ十五のわたしを可哀さうに思つたのでございませう、度々丸佐に勧められても、雛を手放すことだけはためらつてゐたやうでございます。

(芥川龍之介『雛』)

 また禿げ頭が出てきた。明子の親父も禿げ頭だった。大体禿げ頭というのは碌なことはしないものだ。だから頭が禿げるのだろう。子供のひな人形を売れとはいかにもひどい話た。昔のひな人形は花嫁道具だ。それを売れとは、ダンスとフランス語を覚えてフランス人と寝ろと言うようなものだ。セクハラだ。禿げの方もこんなのには全然遠慮しなくてもいい。

 それをとうとう売らせたのは英吉と申すわたしの兄、……やはり故人になりましたが、その頃まだ十八だつた、癇の強い兄でございます。兄は開化人とでも申しませうか、英語の読本を離したことのない政治好きの青年でございました。これが雛の話になると、雛祭などは旧弊だとか、あんな実用にならない物は取つて置いても仕方がないとか、いろいろけなすのでございます。その為に兄は昔風の母とも何度口論をしたかわかりません。しかし雛を手放しさへすれば、この大歳の凌ぎだけはつけられるのに違ひございませんから、母も苦しい父の手前、さうは強いことばかりも申されなかつたのでございませう。雛は前にも申しました通り、十一月の中旬にはとうとう横浜の亜米利加人へ売り渡すことになつてしまひました。何、わたしでございますか? それは駄々もこねましたが、お転婆だつたせゐでございませう。その割にはあまり悲しいとも思はなかつたものでございます。父は雛を売りさへすれば、紫繻子の帯を一本買つてやると申して居りましたから。……

(芥川龍之介『雛』)

 なるほど開化人の兄も死んだか。なんにせよ、いつの時代でも新しぶっている奴には碌でもない奴しかいない。トラスンス・エイジなんてお調子者まで出てきたら、そのうち小便器に大便をするトランス野郎が出て來るに違いない。そんなものは多機能トイレで一万円くれるのと同じではないか。

 で、どうした。

 その約束の出来た翌晩、丸佐は横浜へ行つた帰りに、わたしの家へ参りました。
 わたしの家と申しましても、三度目の火事に遇つた後は普請もほんたうには参りません。焼け残つた土蔵を一家の住居に、それへさしかけて仮普請を見世にしてゐたのでございます。尤も当時は俄仕込みの薬屋をやつて居りましたから、正徳丸とか安経湯とか或は又胎毒散とか、――さう云ふ薬の金看板だけは薬箪笥の上に並んで居りました。其処に又無尽燈がともつてゐる、……と申したばかりでは多分おわかりになりますまい。無尽燈と申しますのは石油の代りに種油を使ふ旧式のランプでございます。可笑をかしい話でございますが、わたしは未だに薬種の匂、陳皮や大黄の匂がすると、必かならずこの無尽燈を思ひ出さずには居られません。現にその晩も無尽燈は薬種の匂の漂つた中に、薄暗い光を放つて居りました。
 頭の禿げた丸佐の主人はやつと散切りになつた父と、無尽燈を中に坐りました。

(芥川龍之介『雛』)

 なるほど。今はドラッグストアか。しかしよほど禿が気になるようだ。なんなら丸佐に禿げの薬でも売りつけて稼げばいいものを。


「では確かに半金だけ、……どうかちよいとお検め下さい」
 時候の挨拶をすませて後、丸佐の主人がとり出したのは紙包みのお金でございます。その日に手つけを貰ふことも約束だつたのでございませう。父は火鉢へ手をやつたなり、何も云はずに時儀をしました。丁度この時でございます。わたしは母の云ひつけ通り、お茶のお給仕に参りました。ところがお茶を出さうとすると、丸佐の主人は大声で、「そりやあいけません。それだけはいけません。」と、突然かう申すではございませんか? わたしはお茶がいけないのかと、ちよいと呆気にもとられましたが、丸佐の主人の前を見ると、もう一つ紙に包んだお金がちやんと出てゐるのでございます。
「これやあほんの軽少だが、志はまあ志だから、……」
「いえ、もうお志は確かに頂きました。が、こりやあどうかお手もとへ、……」
「まあさ、……そんなに又恥をかかせるもんぢやあない。」
「冗談仰有やあいけません。檀那こそ恥をおかかせなさる。何も赤の他人ぢやあなし、大檀那以来お世話になつた丸佐のしたことぢやあごわせんか? まあ、そんな水つ臭いことを仰有らずに、これだけはそちらへおしまひなすつて下さい。……おや、お嬢さん。今晩は、おうおう、今日は蝶々髷が大へん綺麗にお出来なすつた!」

(芥川龍之介『雛』)

 やはり丸佐は禿げだけに、蝶々髷が気になるようだ。それにしても金がなくて困って娘のひな人形迄叩き売ろうというのに、無理に志を渡そうとするのは義理堅いというべきか、格好つけと言うべきか。明治の代はそんな殿様商売では通用しないのではないか。

 わたしは別段何の気なしに、かう云ふ押し問答を聞きながら、土蔵の中へ帰つて来ました。
 土蔵は十二畳も敷かりませうか? 可也広うございましたが、箪笥もあれば長火鉢もある、長持もあれば置戸棚もある、――と云ふ体裁でございましたから、ずつと手狭な気がしました。さう云ふ家財道具の中にも、一番人目につき易いのは都合三十幾つかの総桐の箱でございます。もとより雛の箱と申すことは申し上げるまでもございますまい。これが何時でも引き渡せるやうに、窓したの壁に積んでございました。かう云ふ土蔵のまん中に、無尽燈は見世へとられましたから、ぼんやり行燈がともつてゐる、――その昔じみた行燈の光に、母は振り出しの袋を縫ひ、兄は小さい古机に例の英語の読本か何か調べてゐるのでございます。それには変つたこともございません。が、ふと母の顔を見ると、母は針を動かしながら、伏し眼になつた睫毛の裏に涙を一ぱいためて居ります

(芥川龍之介『雛』)

 ほら母は泣いているではないか。

 ここで雛が母の嫁入り道具であり、そのまた母から譲り受けられたものではないかと気が付く。そして十二代目の紀の国屋伊兵衛が瓦解し、時代を帯びた嫁入り道具が売られようとしていることに気が付く。

 人はその瞬間瞬間を生きて、空しく散っていくものだが、同時に現に生きてある自分は遠い先祖から受け継がれてきた何万年かの遺伝子の乗り物である。そしてみなある「時代」に属し、過去となっていく。人の一生は花火のように一瞬で消え去るものではなく、遠い記憶に連なるものなのだ。

 さあ、遠い記憶に連なってみよう。

 この辺りから。

[余談]

 芥川の作品で青空文庫に無いものの中に『明治』の他に、『キュウピッド』『知己料』『鏡』『舞妓』などの作品があるな。このあたりも整理せねば。

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