人生はあっという間だが、『舞踏会』の一夜で明子の人生が終わってしまったわけではない、と昨日書いたような気がする。
そして開化ものと呼ばれている芥川作品は『開化の殺人』と『開化の良人』だけではなく『舞踏会』と『雛』と『お富の貞操』があるが、『雛』が開化ものと呼ばれているのは『明治』の改稿であるためで、これまでの分類では抜けている『南瓜』が開化ものの中心だと書いたような気がしていたが、『南瓜』のことしか書いていなかった。
今敢て『舞踏会』の後に『雛』を読み返してみれば、語りの位置を伏せて書きはじめられた『舞踏会』に対して、『雛』は冒頭であからさまに老女の回顧であることが告げられていることが目に付く。
つまり人生がはかないものなのかどうかは別にして、兎に角語りの場と語られる場の間に長い時間の経過と云うものが挟み込まれていることになる。そこに『糸女覚え書き』のような皮肉がこめられているのかどうかはまだ解らない。
何故ならまだ最初の一行を読んだけだからだ。その次の行も読んでみよう。
なるほど「徳川家(とくせんけ)の御瓦解以来」なので開化ものというわけだ。「御用金を下げて下すつた」とはいわゆる払い戻しのことだろうか。幕府が無くなったのだから御用金もうやむやにされたということなのだろう。うむこれは幕府批判だ。剣呑である。
また禿げ頭が出てきた。明子の親父も禿げ頭だった。大体禿げ頭というのは碌なことはしないものだ。だから頭が禿げるのだろう。子供のひな人形を売れとはいかにもひどい話た。昔のひな人形は花嫁道具だ。それを売れとは、ダンスとフランス語を覚えてフランス人と寝ろと言うようなものだ。セクハラだ。禿げの方もこんなのには全然遠慮しなくてもいい。
なるほど開化人の兄も死んだか。なんにせよ、いつの時代でも新しぶっている奴には碌でもない奴しかいない。トラスンス・エイジなんてお調子者まで出てきたら、そのうち小便器に大便をするトランス野郎が出て來るに違いない。そんなものは多機能トイレで一万円くれるのと同じではないか。
で、どうした。
なるほど。今はドラッグストアか。しかしよほど禿が気になるようだ。なんなら丸佐に禿げの薬でも売りつけて稼げばいいものを。
やはり丸佐は禿げだけに、蝶々髷が気になるようだ。それにしても金がなくて困って娘のひな人形迄叩き売ろうというのに、無理に志を渡そうとするのは義理堅いというべきか、格好つけと言うべきか。明治の代はそんな殿様商売では通用しないのではないか。
ほら母は泣いているではないか。
ここで雛が母の嫁入り道具であり、そのまた母から譲り受けられたものではないかと気が付く。そして十二代目の紀の国屋伊兵衛が瓦解し、時代を帯びた嫁入り道具が売られようとしていることに気が付く。
人はその瞬間瞬間を生きて、空しく散っていくものだが、同時に現に生きてある自分は遠い先祖から受け継がれてきた何万年かの遺伝子の乗り物である。そしてみなある「時代」に属し、過去となっていく。人の一生は花火のように一瞬で消え去るものではなく、遠い記憶に連なるものなのだ。
さあ、遠い記憶に連なってみよう。
この辺りから。
[余談]
芥川の作品で青空文庫に無いものの中に『明治』の他に、『キュウピッド』『知己料』『鏡』『舞妓』などの作品があるな。このあたりも整理せねば。