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『三四郎』の謎について30 三四郎の母は何故野々宮に金を送るのか?

 私は初見でこんがらがったのですが、皆さんはいかがだったでしょうか。何故小川三四郎の母親は野々宮宗八にお金を送ったのか解りますか。というより野々宮に三四郎が呼び出されて、そこに母親から送られた三十円があったというところで、話の流れがちょっと複雑になり過ぎていませんか。

 流れとしては美禰子が与次郎には信用がないから直接金は渡せない、三四郎になら渡すということと、三四郎は信用ならないから野々宮に金を送る宜しく指導してくれということとが対になる仕掛けですが、佐々木のお蔭で野々宮まで文句を言われている格好で、「偉大なる暗闇」のお蔭で三四郎や広田に迷惑がかかる流れも考えると、いくらトリックスターの仕掛けたこととはいえ色々と巻き込みすぎなような気がします。

 それによくよく考えてみれば、金はそのまま三四郎に渡るわけですし、いくら信用しているとはいえ他人に三十円を送り付けるというのは信用しすぎで、相手(野々宮宗八)にとっては迷惑でもあり、失礼な話ではないでしょうか。何しろ

 「なに、心配することはありませんよ。なんでもない事なんだから。ただおっかさんは、いなかの相場で、金の価値をつけるから、三十円がたいへん重くなるんだね。なんでも三十円あると、四人の家族が半年食っていけると書いてあったが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑った。三四郎にもばかげているところがすこぶるおかしいんだが、母の言条が、まったく事実を離れた作り話でないのだから、そこに気がついた時には、なるほど軽率な事をして悪かったと少しく後悔した。
「そうすると、月に五円のわりだから、一人前一円二十五銭にあたる。それを三十日に割りつけると、四銭ばかりだが――いくらいなかでも少し安すぎるようだな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何を食べたら、そのくらいで生きていられるでしょう」とよし子がまじめに聞きだした。三四郎も後悔する暇がなくなって、自分の知っているいなか生活のありさまをいろいろ話して聞かした。そのなかには宮籠りという慣例もあった。三四郎の家では、年に一度ずつ村全体へ十円寄付することになっている。その時には六十戸から一人ずつ出て、その六十人が、仕事を休んで、村のお宮へ寄って、朝から晩まで、酒を飲みつづけに飲んで、ごちそうを食いつづけに食うんだという。
「それで十円」とよし子が驚いていた。お談義はこれでどこかへいったらしい。 (夏目漱石『三四郎』)

 東京の三十円と九州の三十円の価値は違うとして、三四郎の母親にとっての三十円は今で考えると最低でも百万くらいの価値ではないでしょうか。百万円として考えた時、やはりそれはいくら信用していても他人に何の約束もなく送ることはできないのではないでしょうか。実際失礼ですよね。

 それでも漱石はこういう図を描きたかったわけですね。多少無理をしても。

 このエピソードが『三四郎』という作品の中でどういう意味を持つのかと考えてみると、無理をした理由が解るように思います。

 美禰子が与次郎には金を渡さず、三四郎に金を渡すことと形式上対になり、その不自然を隱す狙いもあるでしょう。

 もう一つはよし子に笑わせ、驚かせるところにあったのではないかと私は考えています。

 三四郎の母親の言い分、あるいは田舎生活のあり様を聞いてよし子は驚きます。この話は美禰子にも伝わるでしょう。そうなるとどうでしょう。いくら三四郎が「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問にゆだねる」と計画していたとして、よし子も美禰子もそれほど暮らし向きのちがう三四郎の母親を受け入れることが出来るでしょうか。三十円で一年暮らせると聞かされれば、ちょっとそういう人とは暮らしていけない感じがしないでしょうか。

 生活水準の格差の暴露、ということでしょうね。東京に出て来て角帽を被って気取ってみても、三四郎はまだ何者でもない田舎者なのです。広田に対して、

 大きな未来を控えている自分からみると、なんだかくだらなく感ぜられる。男はもう四十だろう。これよりさきもう発展しそうにもない。 (夏目漱石『三四郎』)

 ……と一方的に見下して威張って見せても、野々宮を気の毒がり、柔術家を情けなく思おうが、今の三四郎自身はさして学業にも身の入らない上に、田舎の母親の仕送りで暮らすただの貧乏学生に過ぎないわけです。

 生活水準の格差の暴露は美禰子が三四郎を見限ることに合理的な根拠を与えています。美禰子の結婚相手が立派な紳士であることはそれ自体で合理的なことですが、一見不自然な母親のふるまいによって丁寧にふられているところの落ちなのだということが解ります。

 解りますって、解ってました?

 私はたった今解りました。

 そして生活水準の格差の暴露は三四郎に対する戒めでもありますね。母親からでもありますが「知らん人」からの戒めなのではないでしょうか。

[余談]

九州の方へ行くと、宵宮をゴヤゴモリなどゝいふ語があつて、大祭には夜分社殿に集まつて居るが、別に一方に日ゴモリ·晝ゴモリを行ふ囘數は多く、是には女や年寄の比較的閑な人たちが、重詰めの辨當におみき德利を携へて、御宮に集まつて來て食事をする。是を又宮籠りといふ名も存するが、一般にはたゞ一種の懇親會のやうに思つて居る人が多い。
其期日もちやうど春秋の最も好い時候の、用の無い日を擇んで集まるので、土地によつては會場に御宮の拜殿を借用する位に、思つて居る人も無しとせぬ。下ノ關その他の山口縣各地は殊にさういふ風がある。しかし斯うなつてしまつて居ても、なほ參集の人々は、先づ始めに神さまを拜むだけでなく、持參の酒や食物をめいめいに椿の葉などに載せて、御初を神に供へてさて其後で分配し又互ひに交換して食べるのである。
勿論斯ういふ人々は、オコモリ卽ち神を祭ることだとは知り切つて居るのだが、今日はたゞ此語の用ゐられる範圍が、幾分か以前よりも散漫になつて居て、土地によつてはオコモリは樂しいものだといふ、記念ばかり多いのである。(『日本の祭』柳田国男 著弘文堂 1942)

 こういう風習は日本全国にあったようだ。神事にかこつけて飲み食いしていたものが、宗教性がなくなって現在の飲み会につながったのか?


























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