それはまだどこにもない 芥川龍之介の『誘惑』をどう読むか④
昨日は猿が変身する悪魔だと書いた。これまで見てきたように芥川の切支丹ものにおいては悪魔とは兎に角変身するいきものであった。
従ってパイプに変身したり、お菓子に変身したり、傾城に変身するのは悪魔に決まっている。
クローズ・アップ。顔への寄り。その「ほっとした表情」の意味は解らない。観る者の興味を惹こうという算段だ。
下には二匹の猿がいたのだ。戦況は不利らしい。
洞穴の内部なのに、月の光が十字架を照らす?
どうやらこの際芥川は矛盾など歯牙にもかけないらしい。梟を呼ばなくとも蝋燭の炎は猿が尻尾で消せばよかった。
酒鬼薔薇君の『絶歌』にはナイフにフォーカスして引きの画で場面転換という技法が用いられた。「刑事コロンボ」シリーズなどで多用される技法だ。酒鬼薔薇君は写真にフォーカスして引きの画で場面転換という繰り返しの形でこの場面転換の技法がたまたまではないことを示した。
芥川がここで見せているのはそんな借り物の技法ではない。「十字架は又十字の格子を嵌めた長方形の窓に変りはじめる」という場面転換のやり方は、もう映画では見慣れたもののようには思われるものの、芥川がどういうところからこの場面転換を思いついたのか、ちょっと不思議である。
類似の形を変形させる。一旦引く。そしてカメラは窓を突き抜けて室内を捉える。これも現代ではけして見られない絵ではないが、窓の外から中に入って行く映像には必ず編集によるトリックが必要であり、そのトリックを前提にしなければとても思いつくはずもない画だ。
ただカメラで何かを撮影するだけではなく、さまざまなエフェクト編集機能を手に入れれば、そういうことも思いつくだろうとは思う。しかし何かを参考にしなければ、こんな書き方がされうるものであろうか?
夏目漱石の『倫敦塔』にも空想シーンはあるが、ただ空想が現れて消えるだけで、こうした映像を前提にした場面転換の技法は見られない。そうして時間稼ぎをしながら私は現代作家の作品を含め、こんな場面転換が描かれた作品があったかと記憶をぐるぐる回して辿っているのだが、類似の形の変形も室内に入って行くカメラも、なかなか出てこない。
結果として思い出したのはやはり芥川の『葱』における器用なカメラワークだ。ちょっと確認してみてほしい。明らかに芥川はドローンカメラを飛ばしている。
省略法までは酒鬼薔薇君にもできた。もしかして酒鬼薔薇君も俳句をやっているのか、と疑うくらい見事にやって見せた。しかし芥川が見せたこの器用なカメラワークまでは、これまで誰も真似できなかったのではなかろうか。
こうしたカメラを引き連れての視点の移動までが現代文学では許容されていて、それ以上カメラで遊ぶとベテラン編集者に「変なところに凝らずしっかりテーマを書け」と怒られそうだからやらない、というのが現実的な線だとして、たしかにカメラをあまり意識させないようにするのが作法だと、割と窮屈な諦念に囚われていたのではないかという気がする。
すっかり忘れていた作品にこんな技法が使われていたことは驚きである。つまり私は相当なぼんくららしい。
こんなことではいけない。と反省して今日はここまで。
[余談]
場面転換って結構難しいから、やたらと☆で区切ったりするのは「照れ」でもあって、確かに何かにフォーカスして引きの画で場面転換というのは一生に一回までかなという気がしないでもない。やり過ぎるとちょっとね。
それにしても窓からカメラが透過するとは……
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?