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江藤淳の自死について② 犬に捨てられた悲劇?

―君のように忙しい人が、公務御多端にもかかわらずこんなに早くことを運んで下さったことの友情の篤きに感謝の言葉もありません。田村さんには昨夜から住み込んでもらい、夜全く一人でいるわけではないという安心感を満喫しています。聡明な人で、お料理も上手なので、久しぶりで自分の家にいるという気持ちになってきました。この上は十分予後を養い、再起を期したいと思います

 これはお手伝いさんを斡旋してくれた石原慎太郎宛ての江藤淳のお礼状である。これを読むと、当時の江藤淳は余程淋しかったに違いないということが解る。石原慎太郎は東京都現代美術館館長への就任を依頼、江藤淳の再起に向けて厚情を尽くしていた。お手伝いの田村さんの実家は長野らしい。長野から鎌倉に帰る途中、豪雷雨に襲われたものの田村さんは約束の時間より五分早く戻った、と「追悼 さらば、友よ、江藤よ!」(江藤淳『幼年時代』所収・文藝春秋・平成十一年十月十日)にはある。

 これでは雨でお手伝いさんの到着が遅れ、寂しくなった江藤淳が自殺したというストーリーが成り立たなくなる。お手伝いさんは間に合っていたとしたら、江藤淳は何故死んだのか? いよいよ、おちんちん見せつけ説が強まる。そして石原慎太郎の記憶は何故ロジックを無視して入れ替わるのか。果たして本当に田村さんは間に合ったのか?

 江藤淳の「この上は十分予後を養い、再起を期したいと思います」は感情ではなく恩人に対する約束である。「この上は十分予後を養い、再起を期したいと思います」と手紙に書いて三日後に自殺をすれば裏切りである。矛盾している。いや、そもそも『幼年時代』に何故、自殺のいきさつが書かれねばならないのか。

 おそらく事実としては帰る約束は午後、お手伝いさんは帰りが遅れたのであろう。だから寂しくなって死んだという石原慎太郎の解釈は一応筋が通っているとして、お礼の手紙の文面と実際に起きた事の間には深い溝があることは否めない。私が刑事ならば第一発見者を疑わざるを得ない。もしも本当に自死ならば、お手伝いさんが約束の時刻に戻ってこなかったという以上の、何か本質的な問題が起きていたのではなかろうか。

 もうひとつ、普段の江藤淳らしくないなと心にかかったことがある。これも編集者に話したことだが、夫人の入院の準備をしている時期に、愛犬わんちゃんを知り合いにあずけている。この愛犬は、江藤淳の手記のなかでは行方不明になっていて、かれが入院、手術、退院をのべたあとでも、また連れ戻したことも、散歩の日課をはじめたことも書かれていない。これも江藤淳らしくないな、と少し心にかかった。(吉本隆明「追悼 江藤淳」江藤淳『幼年時代』所収)

 四方田犬彦と示し合わせたかの如く、ご飯にネギとカツオブシをぶっかけて食べる吉本隆明は犬の行方と、その報知を巡る江藤淳らしくなさを指摘する。ここで村上春樹の『猫を棄てる 父親について語る時』が思い出される。果たして江藤淳は犬を棄てたのか、犬に捨てられたのか。血だらけになって犬と格闘していた作家は誰かと問われれば、誰しも坂口安吾を思い浮かべるだろう。いつか犬に嚙まれるという自信があった作家ならば太宰治だ。ではその両方の条件を満たす評論家と言えば江藤淳であろう。しかしどういうわけか江藤淳は『犬を棄てる』を書かなかった。『犬に捨てられる』も書かなかった。死別は避けられない運命である。生別は選び取ることのできるものだ。そこには理由がさしはさまれる余地がある。前述のとおり、犬の性格が変わり主人に噛みつくようになったとして、冷静に考えれば再び濃やかに接して、元の愛犬に戻すこともできたのではなかろうか。

 江藤淳はそういう選択をしなかった。よく考えてみれば主人さえ噛む犬を託された誰かは、やはりその犬に噛まれるのではなかろうか。主人を噛む犬を引き取ってくれる奇特な人がいるとして、そういう犬を誰かに託すというのはなかなか厄介な話ではなかろうか。私なら自裁ならぬ処分も考えるところだ。

 四方田犬彦は犬と散歩する健康的な習慣があれば江藤淳は死ななくて済んだのではないかと考えた。吉本隆明は犬のことを曖昧にしたまま江藤淳が死んだことを怪しんだ。

 犬の立場で考えてみよう。犬にしてみれば、そりゃないよ、ということにならないだろうか。江藤淳は犬馬鹿だ。『犬と私』を読んでみるといい。犬は文学以上のものだ。

 犬を飼っているということは、二人女房を持っているようなものだ。これは妻妾同居という意味ではなくて、まったく同じ女房が二人いるという意味である。だから女房を連れて来いというなら、犬も連れて行かなければならない、犬を置いて行けというなら、どうして女房を置いて行ってはいけないのだろう。どちらかにしなければ、私の精神のバランスが崩れてしまうのです。(江藤淳『犬と私』)

 女房を失い、犬と別れた。そこに女房の代わりと言っては失礼ながら聡明で料理上手な住み込みのお手伝いさんがやってくることになった。江藤淳の再起には、やはり犬が必要ではなかったのではなかろうか。ご飯にネギとカツオブシをぶっかけて食べればなんとかなるという訳ではなく、江藤淳には犬が必要であり、犬がいないから江藤淳は死んだのではなかろうか。これは犬を棄てた罰であろうか。犬に捨てられた悲劇であろうか。







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