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芥川龍之介の『河童』をどう読むか⑪ それはラップだろう

 

それはラップだろう


 第二十三号は「捕獲された人間のうち食用に適さない者」ではないかと書いた。そうでなければ何故バッグが漁夫なのか分からないと。そしてバッグに黴毒を与えなかったのは、精神病を遺伝性疾患だと念押しするためだとも書いた。(書いたかな? そんなこと。) そして第二十三号は獺の肉だけではなく人間の肉も食べていたのではないかと書いた。(それはまだ書いていないな。今書いた。)

 しかし黴毒はそもそもこっそり学生であるラップに与えられていたのではなかろうか。

 僕はある時僕の家にトックの詩集を読んでいました。するとそこへ駆けこんできたのはあのラップという学生です。ラップは僕の家へ転げこむと、床の上へ倒れたなり、息も切れ切れにこう言うのです。
「大変だ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」
 僕はとっさに詩集を投げ出し、戸口の錠をおろしてしまいました。しかし鍵穴からのぞいてみると、硫黄の粉末を顔に塗った、背の低い雌の河童が一匹、まだ戸口にうろついているのです。ラップはその日から何週間か僕の床の上に寝ていました。のみならずいつかラップの嘴はすっかり腐って落ちてしまいました。

(芥川龍之介『河童』)

 ラップの嘴はすっかり腐って落ちてしまった。これはいかにも鼻が落ちる病気のパロディではなかろうか。
 梅毒は鼻が落ちる病気である。抱き着かれただけで嘴が腐って落ちるというのも又極端な話ではあるが、精神病は飽くまで遺伝性疾患であり、河童にとっては接触感染で嘴が落ちる病気が梅毒なのだという密かな設定があったのではなかろうか。
 それに梅毒は軽い接触では感染しないので、「大変だ! とうとう僕は抱きつかれてしまった!」というラップの発言に関わらず、チューくらいされていたのではなかろうか。


そもそも河童そのものが


 河童の顔は、特にその鼻がどんなものだったのかというのも分からないところである。医者のチャックが鼻眼鏡をかけていることから、「眼鏡が落ちない程度に鼻の突起はある」と思いきや、こんな記述もあるからだ。

 僕は河童の国から帰ってきた後、しばらくは我々人間の皮膚の匂いに閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていた僕にはいかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいはあなたにはおわかりにならないかもしれません。しかし目や口はともかくも、この鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。

(芥川龍之介『河童』)

 このように書かれることから、どうも河童たちの鼻は人間のように隆起はしていないのではないか、よく描かれるように孔だけあるのではないかと思えてくる。
 或いはチャックの鼻眼鏡とはずらしたまま絶妙のスプリングで留まる仕掛けで、河童たちはみな鼻が落ちたような顔をしていたのではないかと。そうであれば河童たちは鼻が落ちる心配はしなくていいのだ。鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるとは鼻があるからこその悩みで、鼻がそもそもなければ鼻は落ちない。

 ただ嘴が落ちる心配だけしていればいいことになる。


恐ろしい鼻

 

 禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。

(芥川龍之介『鼻』)


 昨日どうも河童たちは全裸で、第二十三号も裸だったのではないかと書いた。そして芥川龍之介には露出狂の癖は見られないと書いた。しかしそもそも『鼻』からして公然猥褻罪ではないか。

 鼻は堂々と晒されていたがここしばらく隠されていた。最近ようやくあちこちで生の鼻を見かけるようになって、改めて猥褻なものを感じる。隠されていたものが晒されるから猥褻なのだ。

 実は生の唇にはもっと猥褻さを感じる。よくもまあ今ではこんな猥褻なものが晒されてきたんだなと感心する。違和感は落差から来る。そう思ってみれば「口はともかくも」と嘴からの落差が指摘されないことも気になる。

 いずれにせよ河童側からしてみると、嘴もなく鼻が異常に隆起した人間の顔は禅智内供の細長い腸詰のようなおかしさがあったことだろう。

 現にバッグの話によれば、ある若い道路工夫などはやはり偶然この国へ来た後、雌の河童を妻にめとり、死ぬまで住んでいたということです。もっともそのまた雌の河童はこの国第一の美人だった上、夫の道路工夫をごまかすのにも妙をきわめていたということです。

(芥川龍之介『鼻』)

 そしてこの話はますます怪しくなる。本当にそんなことがあったのか。全部作り話なのではないか。この雌河童は余程変わった趣味の持ち主だったということか。それにしても嘴があっては聖邪の口唇ができない。道路工夫はそのあたりのことをどうごまかされていたことやら。

お馬鹿な未来


 ある意味で『河童』は空想小説である。空想小説はたまに事実に行き当たる。

「これですか? これは驢馬の脳髄ですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざっと粉末にしただけのものです。時価は一噸二三銭ですがね。」

(芥川龍之介『鼻』)

 河童の国では本を造るのにただ機械の漏斗形の口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけでいい。その粉末は驢馬の脳髄だ。まるでnoteの悪口が書かれているようだ。AIに本の感想を書かせて記事だけ増やそうとしている。膨大な量の汚染データが出来上がる。
 そんなお馬鹿な未来が目の前にある。

 もう、ある?

 とりあえず今日は芥川の「ぢ」だけ覚えて帰ってください。。




[余談]

 それにしてもどうしてこんなに乞食が多いのだろう。千五百も記事を書いているのに一つ二つスキをして物欲しそうな顔をしている。何と醜い人間たちだ。そしてそういう人たちの書いていることは皆、ただ一つの例外もなく、絶望的にだらしがない。背骨がない。少しの努力も見えない。こんな人間たちが他人に認めてもらえると思っていることが恥ずかしい。人間はここまで阿呆になることができるのだと感心する。

 もう一回書くよ。五百も記事を書いているのに一つ二つスキをして、いったい何がしたいのかね? 残りの記事はくだらないという主張かな?

 とりあえず乞食は止めよう。

 本当に真面目に書いている人の邪魔だ。

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