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ほかならないの終焉

夏目漱石が登場しない

 『社会は存在しない セカイ系文化論』、これはセカイ系に関する評論集である。

 江藤淳も大岡昇平も書いていない『こゝろ』論、いや正確に言えば江藤淳から蓮實重彦にいたる『こゝろ』の読み誤りを指摘してしまったのは私が最初ではないのではないのかと、調べていて出くわした一冊だ。

 私は『ほしのこえ』や『新世紀エヴァンゲリオン』の良さを別のところに感じながら、セカイ系という言葉が現代文学を侵し続けるさまを傍観し続けてきた。

 だがどうも本質的な議論が避けられているような予感がするのだ。

 そしてもしやこの本には『こころ』に関する研究があるかと期待して読んでみた。ところが、残念ながら夏目漱石はほぼ登場しない。ほぼというのは妙な表現だが、三浦俊彦の『可能性世界の哲学』の引用の中で、固有名と確定記述に関する物の例えとして利用されるのみだ。しかも巻末の索引ではページ数表記が間違えられている。

 三島由紀夫の『春の雪』でさえ、セカイ系に近接するものだと認められているのに、何故か『こころ』はここでは論じられることがない。

 『こころ』の先生は無職である。人間の罪の感じに苦悩し、明治の精神に殉死すると言い出す。主人公とヒロインの小さな日常と、抽象的かつ非日常的な大問題が、具体的な文脈を挟むことなく直結している世界を描いたのが『こころ』だと誰も気が付かないのだろうか。

 セカイ系の象徴として取り上げられる『ほしのこえ』と『新世紀エヴァンゲリオン』に関して、かつてある人はおおよそこんなことを書いている。

 無限に離れた距離で思い続ける若い二人の恋愛ははかなくも美しい。コンビニの前でアイス食べたかったという少女のささやかな願いがけして果たされないものであることと、現にいかついロボットを操縦するコックピットにあることのどうしようもなさがこの思いを美しくしてしまう。いつかこのような世界が実現することは、離れ離れで暮らす家族がムーバでつながるCMをNTTドコモが流し始めたときに確定した事実だ。
人類補完計画完成の為に放たれた逆ATフィールドによって全ての人類の心が一つに溶け合うという理想は、
「 イエスズ会の神秘論者ピエール・テイヤール・ド・シャルダンから借りてきたのだ 」
 と言えるかも知れない。
「 テイヤール・ド・シャルダンは、すべての生物が、キリストの精神を体現した唯一の神の実体(entity)に合体する未来の像を描いていた 」
 らしい。そして物理学者フランク・ティプラーとジョン・バロウは『人間的宇宙原理』という本の中で、
「 もし知性的機械が、全宇宙を一つの巨大な情報処理装置に変えてしまったら、何が起きるだろうか考えた 」「 つまりいつかは膨張が止まって、逆に収縮していく宇宙では、―― 情報を処理する宇宙の能力は、それが最終的な特異点に収縮する時、無限大に近づくだろうという 」
 ことを前提にして、その時点即ちオメガポイントにおいて知性的機械のやることは何かと考えたのだ。
そしてフランク・ティプラーは『不死の物理学』できっちり答えを出した。
「 オメガポイントは、かって世界に生きていたすべての者を、再生して―― あるいは復活させて―― 永遠の至福を与える力を持つだろう 」
 と考えたのだ。そしてオメガポイントは宇宙の始まりの準拠枠を作る。
 「キリストの精神を体現した唯一の神の実体(entity)に合体する」ことに救いを求めるほど信心深い観客は多くなかった。けれども観客が何か救いを求めて劇場に集まっていたのは間違いない。
オメガポイント理論を拒否することは、我に返るということである。「我」なんてものが存在するうちは、そうするしかないだろう。そしてやがて訪れる激しい戦争に際しては、「我」を忘れて闘うだろう。
 もしも世界が存在するならば。


 これほど見事に読み誤った解釈を、セカイ系という概念は一瞬で整理・修正してくれる。

 実家や養父との関係を断ち、働かず、血潮を浴びせかけて明治の精神と殉死する先生がセカイ系の先駆けでないとはどうも言いにくい。

 しかしまたセカイ系という概念は、意識と外部との関係のきわどさを短絡させかねない。

 何世紀にも及ぶ認識論に関する議論を後戻りさせかねない。

 その短絡は本書でも指摘されているような、たとえばわざわざイランへ行く、というような形での安易な外部の獲得までも目論むかもしれない。内省的な傾向が批判された文学賞の応募作の舞台に、わざと内戦の地が選ばれるようになれば感心する人もいようか。セカイ系から遠ざかるために、今さら『楢山節考』のような寒村の土俗性・村社会への帰属を捏造する者も現れるだろう。

 現実を獲得する手っ取り早い手段として、当事者になってみようとすることのいかがわしさは、今さら論じる必要もなかろう。

 たとえば安吾の時代であれば、死体が転がっていて、爆弾が落ちてくる傍で弁当を使うのだから、日常が世界と繋がっている。

 新聞、ラジオ、テレビ、インターネット…と、意識の拡大の装置はより高度化され、ディープフェイクの世界ではもう現実と非現実の区別もなくなった。世界が広がった分だけ、本当に手の届く範囲と世界との距離は広がった?

 いや、そもそも個人が獲得するセカイなど感想に過ぎない。個人は世界を規定できない。

 つまりもう「ほかならない」なんて時代ではないのだ。この本にも「ほかならない」があふれているが、そもそも『こころ』がセカイ系ならば、時代と文化を切り取るワードとしてのセカイ系が意味をなくすから、あえて『こころ』が避けられたのだとしたら…。

 ほかなる、ほかなる。

 世界はそのようにしか捉えられないものであるとして、セカイ系の擁護者が社会保険に加入していない訳もなかろう。

 そもそも村上春樹的世界観は井上陽水・かぐや姫的世界観と共通のところから引き継がれたものだ。同級生が火炎瓶を投げているさなか、傘がどうしたとか、おでんを食べたとか、そうした小さな世界に引きこもってみせる。そしてそれは作り出されたものではなく、輸入された文化だった。反戦、ラブ&ピースで革命を起こすこと、フリーセックス、そこまではそのまま。ヒッピーはヤンキーに、マリファナはシンナーに翻訳されて西海岸文化が新宿から中央線に拡張した。

 小さな個人の幸せに固執することは、ある時点まで大義のない戦争に参加して多民族を殺さない抵抗運動でもあった。

 勿論個々の意識は様々でデカダン作家が酒を飲んでひっくり返るのと大して変わらない不良だったとも言える。多くの引きこもりは世界を獲得しようとさえしていない。世界を拒否していただけだ。

 吉本隆明が『世界認識の方法』で月々の月刊誌に載せられる文学作品を通じて世界を認識しようと試みた時、そのアイデアの馬鹿馬鹿しさと真っ当さに半ば呆れ、感心したことを思い出す。ある人の世界は日経新聞とワールドビジネスサテライトと堺屋太一で出来上がっており、別のある人の世界はZIPとSweetと東野圭吾でできているとして、その狭い覗き穴から世界が覗けるというアイロニーはまた、一個人に過ぎない誰かが自由な数時間を費やして何とか世界を獲得しようとインターネットを徘徊することの虚しさを指摘してはいまいか。

 もう少しレベルを上げないと、ぼくたちはどこにも辿り着くことはできない。

 フリクションを捨て去ろう。

 ウィトゲンシュタインは「私は、私の世界である」と語る。世界は私の世界であるという唯我論を否定しない代わりに、それが語られるべきものではなく示されるべきものだと判定したのだ。『私が見出した世界』という本に唯一書き込めないものの存在、その主体が世界の限界そのものであり、主体は世界の中に属さないのだ。したがって『私が見出した世界』を書くという行為は、主体が世界の中に存在しないことを示す方法ともなり得るのである。

 またウィトゲンシュタインはそのような世界があるというそのことが神秘であるとも語る。死は人生の出来事ではない。人は死を経験しない。永遠というものが時間の無限の持続のことではなく、無時間性と解されるのならば、現在に生きるものは永遠に生きる。…しかし重要なのは『論考』に書かれなかった部分だ、と巴投げをくらわせる。

 いかにもカフカ的なレトリックだ。

 まさにそのような意味合いに於いて、夏目漱石の『こころ』は、三つの遺書、三人の私が互いに向き合うことで、反復されるカテゴライズ、または比喩の杜撰さから逃れ、世界の限界を語ろうとした企てであったと言えるかもしれない。

 いずれにせよ、なにかといえば「ほかならない」と決めつける批評家たちが夏目漱石の『こころ』をあっさり読み間違えて余計な理屈をこねくり回してきたことは訂正を肯んじえない書き誤りのようなものだ。消せるものではないが、未来を拘束するべきではない。


※ところで『イージー・ライダー』は凄い。普通にマリファナを吸っている。





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