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作物の批評


吾邦未来の文運のため

 余は評家ではない。前段に述べたる資格を有する評家では無論ない。したがって評家としての余の位地を高めんがためにこの篇を草したのではない。時間の許す限り世の評家と共に過去を研究して、出来得る限りこの根拠地を作りたいと思う。思うについては自分一人でやるより広く天下の人と共にやる方がわが文界の慶事であるから云うのである。今の評家はかほどの事を知らぬ訳ではあるまいから、御互にこう云う了見で過去を研究して、御互に得た結果を交換して自然と吾邦将来の批評の土台を築いたらよかろうと相談をするのである。実は西洋でもさほど進歩しておらんと思う。
 余は今日までに多少の創作をした。この創作が世間に解せられずして不平だからこの言をなすのでないのは無論である。余の作物は余の予期以上に歓迎されておる。たといある人々から種々の注文が出ても、その注文者の立場は余によくわかっておる。したがってこれらの人に対して不平はなおさらない。だから余の云う事は自己の作物のためでない事は明かである。余はただ吾邦未来の文運のために云うのである。(『作物の批評』夏目漱石)

 私はこれまで夏目漱石に関して「感想文」あるいは「解釈」のようなものを書いてきた。良いとは書いたが悪いとは書いていない。これが批評だろうかという角度から文句を言いたい人もあるかもしれないが、読めてもいないうちから論っても仕方ないので、まずは正確に読むことに徹した。そうする中でいくつかの批評のパターンを批評してきた。

 たとえばDamian Flanaganは夏目漱石の『門』について、日本人には解らないとして、ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』に引き寄せて読み解こうとする。その噴飯ものの解釈は『日本人が知らない夏目漱石』という作品として日本語で出版されている。しかし夏目漱石のニーチェ評は高くはなく、ドストエフスキーに影響を受けるという程度の影響はない。ただ三十男が山から下りてくるからと簡単に外部を引き寄せてはいけないだろう。

 柄谷行人にもこうした「読み誤り」が多い。読み誤りに難しそうな理屈を足して、勝手な漱石観を創り上げてしまう。この柄谷方式が日本の批評の世界では支配的である。小谷野敦がやや独自路線を走る他、社会学者が小説も書き文学を論じるなど頓珍漢な状態もある。いや、その人たちが漱石をちゃんと読めていれば文句はないのだ。漱石を読み誤っていながら、その読み誤る根本の迂闊さに気が付かず、出鱈目を書いているから困るのだ。

 漱石は『作物の批評』において吾邦未来の文運のため吾邦将来の批評の土台を築いたらよかろうとして根拠地を作りたいと述べている。日本人に理解できない小説を書いて威張っている人の主張ではない。


自己研究の題目と他人教授の課業

 中学には中学の課目があり、高等学校には高等学校の課目があって、これを修了せねば卒業の資格はないとしてある。その課目の数やその按排の順は皆文部省が制定するのだから各担任の教師は委託をうけたる学問をその時間の範囲内において出来得る限りの力を尽すべきが至当と云わねばならぬ。
 しかるに各課担任の教師はその学問の専門家であるがため、専門以外の部門に無識にして無頓着なるがため、自己研究の題目と他人教授の課業との権衡を見るの明なきがため、往々わが範囲以外に飛び超こえて、わが学問の有効を、他の領域内に侵入してまでも主張しようとする事がある。たとえば英語の教師が英語に熱心なるのあまり学生を鞭撻して、地理数学の研修に利用すべき当然の時間を割いてまでも難句集を暗誦させるようなものである。ただにそれのみではない、わが専攻する課目のほか、わが担任する授業のほかには天下又一の力を用いるに足るものなきを吹聴し来きたるのである。吹聴し来るだけならまだいい。はてはあらゆる他の課目を罵倒し去るのである。(『作物の批評』夏目漱石)

 自己研究の題目と他人教授の課業との権衡を見る、これが批評の根拠地だろう。「Damian Flanaganは夏目漱石の『門』について、日本人には解らないとして、ニーチェの『ツァラトストラかく語りき』に引き寄せて読み解こうとする。」これが他人教授の課題である。私の自己研究では禅寺の門は易者の門と対を為す。漱石の日記を見ても書簡を見てもニーチェに感心した気配はない。むしろ冷徹に批判している。この比較において、私は改めてDamian Flanagan説を否定する。罵倒はしないが否定する。

 かかる行動に出ずる人の中で、相当の論拠があって公然文部省所定の課目に服せぬものはここに引き合に出す限りではない。それほどの見識のある人ならば結構である。四角に仕切った芝居小屋の枡みたような時間割のなかに立て籠って、土竜のごとく働いている教師より遥かに結構である。しかし英語だけの本城に生涯の尻を落ちつけるのみならず、櫓から首を出して天下の形勢を視察するほどの能力さえなきものが、いたずらに自尊の念と固陋の見を綯より合せたるごとき没分暁の鞭を振って学生を精根のつづく限りたたいたなら、見じめなのは学生である。熱心は敬服すべきである。精神は嘉みすべきである。その善意的なるもまた多とすべきである。あるにもかかわらず学生は迷惑である。当該課目における智識が欠乏するためではない、当該課目以外の智識が全然欠乏しているからである。ただ欠乏しているからではない。その結果としていらぬところまでのさばり出て、要もない課目を打ちのめさねばやまぬていの勇気があるから迷惑なのである。(『作物の批評』夏目漱石)

 こう考えると柄谷行人に感心している学生が惨めである。明治の精神は明治十年代が持っていた多様な可能性の事である…と残りの二十六年を無いことにされてしまうのが可哀想である。

 何も柄谷行人だけが悪いのではない。例えば『こころ』は英語版ではこんな話だとされている。

 若い学生は、彼が「先生」と呼ぶ老人の侍者になります。 苦く、冷笑的で、怠惰な先生は、社会から撤退しました。 若い学生はすぐにこれらの資質に魅了され、また深く戸惑います。 先生の妻でさえ、彼の慰められない心の源を知りません。 彼らの友情が育つにつれて、若い学生は先生に出没する秘密、世界との彼の関係を危うくした彼の過去の謎にもっと興味をそそられるようになります。 日本語で心を意味するこころは、日本文化における名誉、友情、愛、そして死によって演じられる瞑想です。 これらのテーマは、日本の著名な作家、夏目漱石のペンによって微妙に覆されています。

 あるいは、

 文字通り「心」を意味する日本語の「こころ」は、「物事の心」または「感情」としてより明確に翻訳することができます。夏目漱石の1914年の小説は、もともと日本の新聞に連載されていたもので、明治天皇社会から現代への移行を扱っています。 「先生と私」、「私の両親と私」、「先生と彼の遺言」の3つのパートに分かれて、小説は孤独と孤立のテーマを探ります。最初の部分では、ナレーターが大学に通っていて、彼が主に隠士生活を送っている「先生」としてのみ知られている年上の男性と友達になっているのを見つけます。小説の第2部では、ナレーターは大学を卒業し、父親の死を待つために家に帰ります。小説の第3部では、ナレーターが「先生」から受け取った手紙について説明しています。この手紙には、人類への信仰を失った状況と、幼なじみの死を理由に彼を隠者生活に追いやる罪悪感が書かれています。彼が導いたこと。テーマ別の小説「こころ」は、日本で最も愛されている作家の一人、夏目漱石を紹介しています。

あるいは

 夏目漱石の最も有名な小説であり、彼が死ぬ前に最後に完成させた「こころ」がなければ、日本文学のコレクションは完成しません。 ここに50年以上ぶりの新訳で出版されたこころは、「心」を意味し、2人の無名のキャラクター、若い男と彼が「先生」と呼ぶ謎めいた長老の間の微妙で心に訴える友情の物語です。 彼の人生に長い影を投げかけた悲劇的な秘密に悩まされて、先生はゆっくりと彼の若い弟子に門戸を開き、彼を罪悪感に巻き込んだ彼自身の学生時代からの無分別を告白し、彼の道徳的苦悩の間の橋渡しできないように見える割れ目で明らかにします そして彼の学生はそれを理解するのに苦労しました。それは、20世紀初頭の日本を特徴付ける世代から世代への深い文化的変化です。

  あるいは、

 文字通り「心」を意味する日本語の「こころ」は、「物事の心」または「感情」としてより明確に翻訳することができます。夏目漱石の1914年の小説は、もともと日本の新聞に連載されていたもので、明治天皇社会から現代への移行を扱っています。 「先生と私」、「私の両親と私」、「先生と彼の遺言」の3つのパートに分かれて、小説は孤独と孤立のテーマを探ります。最初の部分では、ナレーターが大学に通っていて、彼が主に隠士生活を送っている「先生」としてのみ知られている年上の男性と友達になっているのを見つけます。小説の第2部では、ナレーターは大学を卒業し、父親の死を待つために家に帰ります。小説の第3部では、ナレーターが「先生」から受け取った手紙について説明しています。この手紙には、人類への信仰を失った状況と、幼なじみの死を理由に彼を隠者生活に追いやる罪悪感が書かれています。彼が導いたこと。テーマ別の小説「こころ」は、日本で最も愛されている作家の一人、夏目漱石を紹介しています。

 太字にした部分には大いに問題があろう。是非とも私の自己研究と比較して貰いたいものだ。

志士と勇士

 少しは勇気がなくては何かものを書いて世間に曝す事はできない。間違えれば恥だからだ。島田雅彦は『こころ』のKを「幸徳秋水」または「キング、天皇」だと書いている。Kは苗字ではなく、天皇はキングではない。こんな人に審査される芥川賞候補者は気の毒だ。漱石もこう書いている。

 これらの人は自己の主張を守るの点において志士である。主張を貫かんとするの点において勇士である。主張の長所を認むるの点において智者である。他意なく人のために尽さんとするの点において善人である。ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざるがため、わが縄張を設けて、いい加減なところに幅を利かして満足すべきところを、足に任せて天下を横行して、憚らぬのが災いになる。人が咎めれば云う。おれの地面と君の地面との境はどこだ。境は自分がきめぬだけで、人の方ではとうから定めている。再び咎めれば云う。この通り足が達者でどこへでも歩いて行かれるじゃないか。足の達者なのは御意の通りである。足に任せて人の畠を荒らされては困ると云うのである。かの志士と云い、勇士と云い、智者と云い、善人と云われたるものもここにおいてかたちまちに浪人となり、暴士となり、盲者となり、悪人となる。(『作物の批評』夏目漱石)

 悪人とは厳しい。私は悪人にならない様に他人の解釈が間違いだという時、必ず根拠を示すことにしよう。

 今の評家のあるものは、ある点においてこの教師に似ていると思う。もっとも尊敬すべき言語をもって評家を翻訳すれば教師である。もっとも謙遜けんそんしたる意義において作家を解釈すれば生徒である。生徒の点数は教師によって定まる。生徒の父兄朋友といえどもこの権利をいかんともする事はできん。学業の成蹟は一に教師の判断に任せて、不平をさしはさまざるのみならず、かえってこれによって彼らの優劣を定めんとしつつある。一般の世間が評家に望むところは正にこれにほかならぬ。
 ただ学校の教師には専門がある。担任がある。評家はここまで発達しておらぬ。たまには詩のみ評するもの、劇のみ品するものもあるが、しかしそれすら寥々たるものである。のみならずこれらの分類は形式に属する分類であるから、専門として独立する価値があるかないかすでに疑問である。して見ると、つまりは純文学の批評家は純文学の方面に関するあらゆる創作を検閲して採点しつつある事になる。前例を布衍して云うと地理、数学、物理、歴史、語学の試験をただ一人で担任すると同様な結果になる。(『作物の批評』夏目漱石)

 この指摘は今の芥川賞などの選評にそのまま当てはめられる。多くの否定がそのまま得意と不得意から生じる誤解と悲鳴に見える。「軍事系マニアでない読み手には、とてもつらい。」のなら評価を辞退すべきであろう。そうでないと邪魔な悪人になってしまう。


作物と同じ平面に立つ

 とてもシンプルな話、人には好みがある。それこそ小説は読まないという人もいる。そのことは全く不思議ではない。詩は読むが小説は読まないという人がいてもいい。ただ好みでないものを無理に低く評価しなければいいだけだ。

 純文学と云えばはなはだ単簡である。しかしその内容を論ずれば千差万別である。実は文学の標榜するところは何と何でその表現し得る題目はいかなる範囲に跨がって、その人を動かす点は幾ヵ条あって、これらが未来の開化に触るるときどこまで押拡げ得るものであるか、いまだ何人も組織的に研究したものがおらんのである。またすこぶるできにくいのである。
 こう云うては分らんかも知らぬ。例を挙あげて二三を語ればすぐに合点が行く。古い話であるが昔の人は劇の三統一と云う事を必要条件のように説いた。ところが沙翁の劇はこれを破っている。しかも立派にできている。してみると統一が劇の必要であると云う趣味から沙翁の作物を見れば失望するにきまっている。あるいは駄作になるかも知れぬ。しかしこれがために統一論の価値がなくなったのではない。その価値がモジフハイされたのであると思う。だからこの条件を充たした劇を見ればやはりそれなりに面白い。その代り沙翁の劇を賞翫する態度でかかってはならぬ。読者の方で融通を利かして、その作物と同じ平面に立つだけの余裕がなくてはならぬ。(『作物の批評』夏目漱石)

 漱石は作品に合わせて読者が融通を利かせばいいというが、これは寧ろ難しかろう。普通の読者は無理に夏目漱石を読まなくてもいいのだ。無理に読む必要はない。漱石作品では沙翁の作物に負けず劣らず、時間と場所が移動し、同じ言葉も意味を変えて使われ、意味が後で現れてくる。そうした細工を見ていかないと面白さが伝わらない。例えば『行人』を「長くてつまらない、誰かこの作品の良さを教えてくれ」と読書メーターに書いている人がいたので説明してあげようかとも思ったが、時間の無駄のように思えて関わらなかった。『行人』の英語版はこんなふうに紹介される。

 日本文学の現代古典である「行人」は、1912年から1913年に書かれ、おそらく男と芸術家の漱石を最もよく表しています。 主人公の一郎は、妻のオナオと弟の二郎と三角関係にある。 漱石の小説は、孤独から逃れるための人間の努力を扱っており、行人では、主人公は彼の孤立感によってほとんど狂気に駆り立てられます。 現代の写実小説が日本に根付いたのは漱石を通してでした。 東洋の伝承に浸り、ヨーロッパの文学で育まれた彼は、他の誰よりも多くの必要な活力を現代の日本語の文章に注入するために尽力しました。

 これでは殆ど読んでいないのに等しい。しかしそれは翻訳者が悪いのではない。漱石作品において、その作物と同じ平面に立つだけの余裕など誰にでもある訳ではない。むしろそんな人はこの百年間一人も現れなかったのである。

 ほかに一例をあげる。また沙翁を引合に出すが、あの男のかいたものはすごぶる乱暴な所がある。劇の一段シーンがたった五六行で、始まるかと思うとすぐしまわねばならぬと思うのに、作者は大胆にも平気でいくらでも、こんな連鎖を設けている。無論マクベスの発端のように行数は短かくても、興味の上において全篇を貫く重みのあるものは論外であるが、平々凡々たるしかも十行内外の一段を設けるのは、話しの続きをあらわすためやむをえず挿入したのだと見え透すくように思われる。換言すれば彼の戯曲のあるものは齣幕の組織において明かに比例を失している。だから比例だけを眼中に置いてマーチャント・オブ・ヴェニスを読むものは必ず失敗の作だと云うだろう。マーチャント・オブ・ヴェニスはこの点から読むべきものでないと云う事がわかる。また沙翁を引き合に出す。オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。(今はその理由を説明する余地がないから略す)もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際がある。読者はそれを見ればいい。日本の芝居の仕組は支離滅裂である。馬鹿馬鹿しい。結構とか性格とか云う点からあれを見たならば抱腹するのが多いだろう。しかし幕に変化がある。出来事が走馬灯のごとく人を驚かして続々出る。ここだけを面白がって、そのほかを忘れておればやはり幾分の興味がある。一九は御覧の通りの作者である。一九を読んで崇高の感がないと云うのは非難しようもない。崇高の感がないから排斥すべしと云うのは、文学と崇高の感と内容において全部一致した暁でなければ云えぬ事である。一九に点を与えるときには滑稽が下卑であるから五十とか、諧謔が自然だから九十とかきめなければならぬ。メリメのカルメンはカルメンと云う女性を描いて躍然たらしめている。あれを読んで人生問題の根元に触れていないから駄作だと云うのは数学の先生が英語の答案を見て方程式にあてはまらないから落第だと云うようなものである。デフォーは一種の写実家である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイノック・アーデンのように詩趣がないと云う。ここまではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだからロビンソンクルーソーは作物にならないと云うのは歌麿の風俗画には美人があるが、ギド・レニのマグダレンは女になっておらんと主張するようなものである。――例を挙あげれば際限がないからやめる。(同上)

『行人』には事件の綜合と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際がある。「全体として閉塞感があり、新しい思想や価値観の光に乏しかった。」と批評されても困る。「主人公の世界が、精神医学の症例報告的な記述となってしまった。」もあたらないだろう。「とにかく内容がつらい……。もちろんつらい話を書いてもいいのだが、その場合、たとえば圧倒的に美しい風景だとか、絶対的に無垢な心だとか、そういったものと引き換えでないと、世界のバランスが悪い」これは勝手な価値観の押し付けである。ちなみにこれらは芥川賞の選評である。方法論のないまま論っているので悲惨である。


百点満点で評価せよ

 作家が評家に呈出する答案はかくのごとく多種多面である。評家は中学の教師のごとく部門をわけて採点するかまたは一人で物理、数学、地理、歴史の智識を兼ねなければならぬ。今の評家は後者である。いやしくも評家であって、専門の分岐せぬ今の世に立つからには、多様の作家が呈出する答案を検閲するときにあたって、いろいろに立場を易えて、作家の精神を汲くまねばならぬ。融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、その趣味以外の作物を一気に抹殺せんとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会せざるを得ない。世間は学校の採点を信ずるごとく、評家を信ずるの極きょくついにその落第を当然と認定するに至るだろう。
 ここにおいて評家の責任が起る。評家はまず世間と作家とに向って文学はいかなる者ぞと云う解決を与えねばならん。文学上の述作を批判するにあたって(詩は詩、劇は劇、小説は小説、すべてに共有なる点は共有なる点として)批判すべき条項を明かに備えねばならぬ。あたかも中学及び高等学校の規定が何と何と、これこれとを修め得ざるものは学生にあらずと宣告するがごとくせねばならん。この条項を備えたる評家はこの条項中のあるものについて百より〇に至るまでの点数を作家に附与せねばならん。この条項のうちわが趣味の欠乏して自己に答案を検査するの資格なしと思惟するときは作家と世間とに遠慮して点数を付与する事を差し控えねばならん。評家は自己の得意なる趣味において専門教師と同等の権力を有するを得べきも、その縄張なわばり以外の諸点においては知らぬ、わからぬと云い切るか、または何事をも云わぬが礼であり、徳義である。(同上)

 丸だの三角だのといい加減なものではなく、まず文学とは何かという定義を置いて百点満点で評価する仕組みが必要だという理屈である。しかしそのためには作品を添削できるくらいの実力差がなくてはならない。この批評の方法について、私は歌合の様な形でなら可能ではないかと考えたことがある。その可能性に関して『六百番歌合』等で検証したが無理だと判断した。やはり多種多面な作品を百点満点で評価するのは無理があると思うからだ。

 これらの条項を机の上に貼り附つけるのは、学校の教師が、学校の課目全体を承知の上で、自己の受持に当るようなもので、自他の関係を明かにして、文学の全体を一目に見渡すと同時に、自己の立脚地を知るの便宜になる。今の評家はこの便宜を認めていない。認めても作っていない。ただ手当り次第にやる。述作に対すると思いついた事をいい加減に述べる。だから評し尽したのだか、まだ残っているのか当人にも判然しない。西洋も日本も同じ事である。
 これらの条項を遺憾なく揃そろえるためには過去の文学を材料とせねばならぬ。過去の批評を一括してその変遷を知らねばならぬ。したがって上下数千年に渉って抽象的の工夫を費やさねばならぬ。右から見ている人と左から眺めている人との関係を同じ平面にあつめて比較せねばならぬ。昔の人の述作した精神と、今の人の支配を受くる潮流とを地図のように指さし示さねばならぬ。要するに一人の事業ではない。一日の事業でもない。
 この条項を備えたる人にして始めて、この条項中に差等をつける事を考えてもよいと思う。人力も人を載せる。電車も人も載せる。両者を知ったものが始めて両者の利害長短を比較するの権利を享ける。中学の課目は数においてきまっている。時間の多少は一様ではない。必要の度の高い英語のごときは比較的多くの時間を占領している。批評の条項についても諸人の合意でこれらの高下を定める事ができるかも知れぬ。(できぬかも知れぬ崇高感を第一位に置くもよい。純美感を第一にするもよい。あるいは人間の機微に触れた内部の消息を伝えた作品を第一位に据すえてもいい。あるいは平々淡々のうちに人を引き着ける垢抜のした著述を推すもいい。猛烈なものでも、沈静なものでも、形式の整ったものでも、放縦にしてまとまらぬうちに面白味のあるものでも、精緻を極きわめたものでも、一気に呵成したものでも、神秘的なものでも、写実的なものでも、朧のなかに影を認めるような糢糊たるものでも、青天白日の下に掌をさすがごとき明暸なものでもいい――。相当の理由があって第一位に置かんとならば、相当の理由があって等差を附するならば差支えない。ただしできるかできぬかは疑問である。
 これらの条項に差等をつけると同時にこれらの条項中のあるものは性質において併立して存在すべきも、甲乙を従属せしむべきものでないと云う事に気がつくかも知れぬ。しかもその併立せるものが一見反対の趣味で相容れぬと云う事実も認め得るかも知れぬ――批評家は反対の趣味も同時に胸裏りに蓄える必要がある。
 物理学者が物質を材料とするごとく、動物学者が動物を材料とするごとく、批評家もまた過去の文学を材料として以上の条項とこの条項に従て起る趣味の法則を得ねばならぬ。されどもこの条項とこの法則とは過去の材料より得たる事実を忘れてはならぬ。したがって古ふるきに拘泥してあらゆる未来の作物にこれらを応用して得たりと思うは誤りである。死したる自然は古今来を通じて同一である。活動せる人間精神の発現は版行で押したようには行かぬ。過去の文学は未来の文学を生む。生まれたものは同じ訳には行かぬ。同じ訳に行かぬものを、同じ法則で品隲せんとするのは舟を刻んで剣を求むるの類いである。過去を綜合して得たる法則は批評家の参考で、批評家の尺度ではない。尺度は伸縮自在にして常に彼の胸中に存在せねばならぬ。批評の法則が立つと文学が衰えるとはこのためである。法則がわるいのではない。法則を利用する評家が変通の理を解せんのである。(同上)

 やはり漱石は無理を言っている。無理なところに勝手な自由を宛がう卑怯を突いている。まだ何点と採点する仕組みがない。文学の価値をどこにおくのか明確でもないし共通了解がない上に、そもそも共通了解が可能なものか、あるいは共通了解という枠組みが我が国の文芸の発達に利するものか見当がつかない。


未知なるものも評価する


 作家は造物主である。造物主である以上は評家の予期するものばかりは拵えぬ。突然として破天荒の作物を天降らせて評家の脳を奪う事がある。中学の課目は文部省できめてある。課目以外の答案を出して採点を求める生徒は一人もない。したがって教師は融通が利きかなくてもよい。造物主は白い烏を一夜に作るかも知れぬ。動物学者は白い烏を見た以上は烏は黒いものなりとの定義を変ずる必要を認めねばならぬごとく、批評家もまた古来の法則に遵がわざる、また過去の作中より挙げ尽したる評価的条項以外の条項を有する文辞に接せぬとは限らぬ。これに接したるとき、白い烏を烏と認むるほどの、見識と勇気と説明がなくてはならぬ。これができるためには以上の条項と法則を知れねばならぬ。知って融通の才を利かさねばならぬ。拘泥すればそれまでである。(同上)

 よく女性作家が「男性が女性を描くとかならず何々」という偏見を語ることがある。自分は女だから女の考え方が解り、男にはそれが解らないという偏見だ。そう言ってしまうと自分には男の考え方も解かる。両方解かると言ってしまっていることになり矛盾である。私には私が考えていることしか解らない。漱石を読めば、漱石が何を考えていたのかなと考えるだけで、解っている訳ではない。同性作家のものであっても、さっぱり解らないものがある。女性作家の書いたものは女性にしか解らないのであれば、『源氏物語』を試験に出すのは差別である。

 少女マンガ的美少年と少年漫画的ヒーローに明確な違いがあったことは事実であろう。女性の描く女性が露骨な場合もあり、それを鋭いと思わせたいのだろうなと感じることもある。普通の男性にとっての最も身近な女性は母であり、女性の造形においては母の面影が願望として現れるというような解釈は自由だが、自分と性格の異なる女を全部不自然と見てしまってはしょうがない。

 正直に言えば私はこれまで村上春樹が書いてきたキャラクターの中で青豆雅美だけはどうも受け入れ難く感じている。そのために『1Q84』については少し不満があり、その続きについて少し自分でも書いてみた。

 だが不思議なことに青豆に共感する女性は多い。金玉蹴りの練習をする連続殺人鬼に共感する。私には不思議だが、これこそがむしろ『1Q84』を読む正しい態度であるかもしれない。青豆を罰することに対する期待、それはもう「勧善懲悪」という古い時代の物差しなのである。連続殺人鬼とゴーストライターの心温まるセックス、それを歓迎する明治の批評家はあるまい。しかしそれでは石原慎太郎に価値を見出す事すらできないのだ。古い価値観に拘泥してはならない。

 現代評家の弊はこの条項とこの法則を知らざるにある。ある人は煩悶を描かねば文学でないと云う。あるものは他にいかほどの採るべき点があっても、事件に少しでも不自然があれば文学でないと云う。あるものは人間交渉の際卒然として起る際どき真味がなければ文学でないと云う。あるものは平淡なる写生文に事件の発展がないのを見て文学でないと云う。しかして評家が従来の読書及び先輩の薫陶、もしくは自己の狭隘なる経験より出でたる一縷の細長き趣味中に含まるるもののみを見て真の文学だ、真の文学だと云う。余はこれを不快に思う。(『作物の批評』夏目漱石)

 これは結びではない。結びは冒頭である。つまり研究が足りないという話になる。研究が足りないから根拠地がない。未知なるものも評価する仕組み、創造者たる作者の未知なる創作物に対して、新たに研究し直す努力が必要なのだ。

 無論その遥か手前で夏目漱石作品を正しく読む程度の地味な努力が必要だ。それさえできないで作物の批評は無理だ。まず正しく読むことから始めなければその先には何もない。批評の前に勉強が必要だ。





 

 
 



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