夏目漱石『明暗』の技巧① 浮遊する視座とパースペクテイブ実在論。
谷崎潤一郎が徹底して『明暗』を批判していたので、谷崎潤一郎のロジックに従い、『明暗』に優れた技巧が沢山あることを具体的に示して、その誤解を解いて行きたいと思います。
え?
それ、誤解なんですって。
そもそも私自身『明暗』を上品な作品だとはみなしていません。むしろ、どうして漱石がボロボロになりながら、そしておそらくはこれが最後の作品になるのではないかとうすうす感じながら、『明暗』のようなテーマを選んだのかが疑問です。「二か月も散髪しない痔瘻の三十男が、流産した昔の女、人妻を温泉宿にまで追いかけるという話」なので知的な感じがないと思うんです。
その一方で、技巧の巧みなところには驚きます。今日はそのうち「浮遊する視座」という技巧について書いてみたいと思います。以前芥川龍之介の『羅生門』の結びの部分で、カメラがスイッチされている立体的な表現について触れました。
引きの絵からにきびにズームしたりと『羅生門』の描写はずいぶん立体的です。このカメラのスイッチ式のやり方では、とにかくあれやこれやを書けばいいという訳ではなく、多くの作家のものは「描写」というより「説明」になってしまっています。現在の私たちは映画やドラマ、アニメーション作品などで複雑なカメラワークに見る方は馴れてしまっていますけれども、いざ書こうとするとなかなか文章で同じことはできません。何度も引き合いに出してすみません。この芥川のようなことがいしきしてもなかなかできないのです。
これ、狐の目線ですからね。こういう見事に立体的な描写というものは余り多用してしまいますと読者を混乱させかねません。だから芥川は効果的にここぞというところで使います。
それに対して夏目漱石の「浮遊する視座」は最初は云われないと気が付かないようにさりげなく、そしてだんだんと過激化し、終いには明確に話者が入れ替わっているのに、読者に不自然を感じさせないという超絶的な技巧として現れます。このことは谷崎潤一郎でさえその技巧に気が付いていないという事実をして、まさしく超絶的と認めてよいでしょう。
冒頭付近に仕掛けられたこの「浮遊する視座」では明確にカメラのスイッチワークが行われています。説明ではないんですね。
①「津田の顔には苦笑の裡に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。」→津田には津田の顔は見えませんから、これは誰かが津田を見ていますね。
②「医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。」→ これは津田が医師を見ているんでしょう。
③「津田は無言のまま帯を締しめ直して、椅子の背に投げ掛けられた袴を取り上げながらまた医者の方を向いた。」→これは医師側から津田をカメラに収めていますね。
こうした誰が何を見ている、誰に何が見えている、あるいは誰には何が見えているけれども別の誰には見えないという「見え方」あるいは「パースペクティブ」とこの「浮遊する視座」という技巧は切り離せないものです。哲学的には『道草』の、
この考え方の裏返しでしょうか。実際のところは解らないけれど、そう見えている世界の成り立ちをのみ肯定すればパースペクティブ実在論が出来上がります。
津田には雀の巣が見えません。お延に言われた瞬間洋杖は現れます。それまで津田が洋杖を持っている描写は一切なかったのに、云われた瞬間に現れます。ここでお延がお鞄と言えばお鞄が、お帽子と言えばお帽子が、つのかなとこといえばつのかなとこが現れる仕組みです。
そしてここでは二人の周りをドローンのようにカメラが飛び回っていることを確認してみてください。お延が家に上がるところは津田には見えません。振り返る動作があれば、その振り返りに意味が生じますから、津田はそのまま前を向いて室内に入ります。ドラマなら格子戸の内側にカメラが待っていて津田を捉え、お延の後ろから別のカメラがお延の尻ぶりを捉えるところでしょうかね。ここで遊びの要素が欲しければ、津田には見えなかった雀の巣を映して、場面を転じても良いでしょうか。
この「津田には見えない雀の巣というモチーフ」これもなかなかいかしていませんか。どうやら新婚六か月で妊娠の気配もない、(お勤めも十分ではない)、お延の物足りなさを仄めかす感じがして、なかなか器用だなと言う感じが私にはするわけですが、大谷崎にはそうでもないようで、残念で仕方ありませんが。
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