電源ボタンと音声の小 牧野信一の『ランプの明滅』をどう読むか②
そんなことをしても無駄だ。
どうにもならない。
そうわかってはいるけれど兎に角昨日は、こんな記事を書いた。
① え? 何でここに照子が?
② 「何故か……涙ながるる」は早すぎない?
とわざとらしく私は二つに分裂して驚いていたが、本当は、
③「試験だつてえのに困るわね」って照子も道子同様江戸弁?
とも書こうとして忘れていたのである。忘れていたのはいろんなことを考えているからだ。爪を切るということは爪が伸びていたんだなとか、大正時代にコンドームはなかったんだろうかとか、養老孟子は本当に平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読んだんだろうかとか、いろいろと。
まるで照子は道子のようではないか。そう気がついた時にはもう遅い。「彼」つまり「秀ちゃん」が『爪』の「彼」に似てきてしまった。情緒不安定である。そして問題はこの「同居?」という当たり前の読者の当たり前の疑問に対して、何の回答も示す気配のないまま、このまま話が進んでいく気配がありありだということだ。
これはいけない。
そしてランプとは電灯のことではなく、停電になったのであり、ランプを持ってくることでますます照子が照子らしく思えてきたのに、道子の道子らしさはいまだに明らかではなく、この部屋に火鉢があるのかないのか、障子の部屋なのかどうなのか、さっぱりわからないから困るのだ。
スマホのスクショのやり方でさえ教えられないとわからないものだ。
案の定だ。牧野は明らかにその問題を棚上げして、今度は「シン」と書いてみる。芯とは書かない。まあそれはいいが、何か「秀ちゃん」が牧野信一と重ねられそうな感じがしてくる。そうなると道子がややこしいが仕方がない。牧野も大正四年に落第している。そして照子は……。
これはどういう状況なのかが良くわからないが、兎に角照子は「秀ちゃん」ではない別の誰かと結婚したらしい。目出度いことだ。しかし相変わらず「同居?」という当たり前の読者の当たり前の疑問には答えがない。
その答えは、
このようにして示された。照子は家を飛び出して同棲していた雛妓だったのだ。勿論これはそのまま牧野信一の事実ではない。芸妓に惚れたことはあったようだが、そもそも親父に勘当されようにも、牧野の親父は牧野が一歳にならないうちに家を出て単身アメリカに渡るという変わり者で、日本に戻っても別居していた。
いずれにせよこれを書いている大正九年二月二十五日の時点では牧野は結婚をしていないので、ここには少しは牧野信一の記憶というものが紛れこんでいるのかもしれないけれど、あった事実そのものというわけでもない。
なるほどお転婆な照子とは同棲していて、それから別れたのかという話になる。妻帯者が昔惚れていた女、学生時代の同棲相手を思い出して感傷的になると云う話を独身者が書いていると考えてみて、まだ存在しない「妻」はさぞかし大変だろうと思えてくる。「妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、非常に後悔した」とはどういう感情なのかと。
割とシンプルに捉えると、美しい照子に対して妻は闇子とでもいうべき醜さ、あるいは美しくなさというものを持っていたので、この作品のタイトルが『ランプの明滅』なのであり、妻には夫の昔の恋人に嫉妬する理由があったのであろう。妻の名前は闇子ではなく「磯」、石や岩の多い波打ちぎわのことで、顔がごつごつしている気がする。
そうであれば「妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、非常に後悔した」という気持ちにでもなるのだろうか。もし落第してゐなければどうなった??
茶目な秀ちゃんは美しい照子と結婚出来ればそれで幸せになれたのか?
それは解らないが寧ろ夫の過去の恋を疑って泣くほどメンヘラな妻を見つけてしまう茶目な秀ちゃんを笑ってあげるべきか。「やつぱり眠られない。もう一度灯りをつけておくれ。」と言う秀ちゃんと磯はお似合いと見てあげるべきか。
あえて言えば雛妓とは十一歳から十六歳の未成年なので「秀ちゃん」はかなり若い女に入れ込み、恐らく手は出せずにいただろうということになる。一方磯にしてみればそんな若い、と言うより幼い女と同棲していたことが気になるという気持ちも解らないでもない。ポイントは照子の若さなのだ。
作品の主題は「彼は困つたことなのか、困らないことなのだか、といふ区別を自身の心につけることは出来なかつた」と言うあたりに現れる自分の気持ちの捉え難さとランプのシンの上げ下げに見られる自身の行動の制御不能さ、つまり自分というものの意志とか感情の曖昧さに振り回される青年の、
青年のなんだ?
悲哀?
違うな。
青年だけでもないんだ。
照子も磯も変なんだ。
いずれにせよ最後は「涙こぼるる」なので、これは恋である。
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