岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する178 夏目漱石『明暗』をどう読むか27 肛門と連絡されるお延
変な感じ
岩波はこの「手術後局部に起る変な感じ」に注解をつけて、
という日記を引く。
いやいやいや。
そういうことではなくて。「この変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった」、注解をつけるべきところはここだろう。ここに注解をつけないと。「この変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった」って一体旦那の肛門と女房が連絡しなければならないのかというところではなかろうか。
それともあれかな、私だけが無知なだけで、世間一般の夫婦は夫の肛門と奥さんがLINEとかするのが普通なのかな。まさかそれはないんじゃないのかな。しかし岩波が注を付けていないということは、普通の読者はこの「この変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった」というところにに一切引っかからないということなんだよね?
本当かな?
この辺りの現実が私には信じがたい。
肛門と奥さんは連絡するもの?
津田の痔瘻はお延の所為なの?
お延が手術したり、ガーゼを詰めたりしたの?
本当にこれは私がつまらない勘違いをしているのだろうか。そうでないとしたら、やはり夏目漱石作品はこれまで誰一人として読んでいないことにならないだろうか。
二つの間にある関係を拵えた
この直前の「変な感じ」を読み飛ばした人は続くこの一節を丸ごと読み飛ばしていることになる。
ここで漱石はこんなおかしなことを書いていないだろうか。
お延が病気の良人をほったらかして芝居に行ったお蔭で津田の肛門は変な感じになったじゃないか、と。
いや、それは全く手術の結果であり、神経が過敏になっていたとは言え、自分から芝居に行くことを勧めたくせに言いがかりの八つ当たりも甚だしいよと、ここはむしろ引っかからねばならないところだ。
この謎ロジックは、例えば有名な『こころ』における先生の何とも言えないKに対する親切と嫉妬のマッチポンプ、擬制家族の奪い合いのロジックに似ていなくもない。
・先生は自分の下宿にKを招いて奥さんとお嬢さんにできるだけKと親しくさせようとした
・津田由雄は芝居に行きたがっているお延を自由にしてやった
・Kと「宅のもの」が親しくなると先生は不愉快になった
・お延が芝居に行ったので津田由雄の肛門は変な感じになった
なるほど人間らしいと言えば人間らしいのかもしれないが、やはり幼稚な我儘である。何ならこの後清子を追いかけて温泉に行くのだし、先に怪しい手紙を処分していることを考えると津田の肛門に同情する気にはなれない。「お前が芝居に行ったから俺の肛門は変な感じなんだ」と言われてもお延は困るだろう。
この困る理屈がここでは捏ねられている。
お延のお蔭で痛み始めたんだ
お延のお蔭で痛み始めたんだとは流石に言えまい。「腹の中がいかにも兄らしくない」というか、まさに「駄々っ子」である。『こころ』の先生はいざ知らず、津田由雄はもう三十である。
大体手術直後は麻酔が利いているから痛みはない。麻酔が切れてから鈍痛、激痛が始まる。津田の場合は座薬が入れられないのかもしれないので、かなり痛い筈だ。その痛みは手術の所為であり、お延の所為ではない。そのくらいの理屈はわかりそうなものだが。
この矛盾を腹立たしく感じた
そう、津田はそもそも矛盾した男だったのだ。
清子に未練があるのに目の細い容貌の劣者・お延を嫁に貰う。貰うつもりがないのに貰う。お延を自由にしてやりたいのに、芝居に言った途端に肛門と連絡をつける。そしてお延のお蔭で痛み始めたんだと云う訳の分からない理屈を捏ねる。そして聴きたくもない話を督促する。
この津田の矛盾に関して、ごくごく一般論として「誰しも矛盾を抱えて生きている」という程度の一般化で誤魔化すことにはほぼ意味はない。そうした矛盾というのは、朝鮮くんだりまで生きたくはないが、仕事の口がないので仕方なく朝鮮に行くとか、ブルシットジョブはやりたくないが、食うために仕方なく働くという程度のものだろう。
この津田の矛盾は何度も繰り返し確認している通り、
・このおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう
・しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに
というある意味自分を自分の主人公にしないという特殊なもので、この部分だけで考えれば、記憶喪失か意識障害が疑われるものだ。酔っぱらって夜中にラーメンを食べるのとは話が違う。知らない間に嫁を貰っているなんてことはあり得る筈がないのだ。その津田の矛盾が変な感じとお延の連絡や、こうして聴きたくもない話を催促するところにも現れているのだ。読者はその一般論では片付けられない津田の矛盾したところに気が付かなくてはならない。
漱石研究家が漱石作品を全然読めていない、『定本漱石全集』の注解者が漱石作品を全然読めていない、というくらいの矛盾が津田の中にはあるのだ。
で、何で読めないのに私の本を買わないの?
そこで勉強しようと思わない?
なまじい容色が十人並以上
夏目漱石作品美人ランキングで言えば、
一位 甲野藤尾
二位 里見美禰子
三位 堀秀子
四位 静
五位 マドンナ
六位 関清子
七位 平岡三千代
八位 田口千代子
九位 那美さん
十位 野々宮よし子
といったところか。当然お延はランキング外である。何しろ容貌の劣者なのだから。しかしよくよく考えると里見美禰子の美しさは万人向けのものでもないので、このように兄からも「なまじい容色が十人並以上」と言われる堀秀子が二位に入れ替わっても良いようにさえ思えてくる。
しかしここは漱石の意地の悪いところだ。秀子をやたら美人だ美人だと褒めるのは、お延をディスるためなのだ。ここでも言われているように普段妹だと見ていると美人だという評価はできにくいものなのだ。それでも美人だと認めざるを得ないのだから、津田由雄と堀秀子は互いに整った顔の美男美女同士ということになる。
つまり特別な卵と精虫が配合されたということになる。
津田は細い眼の子供が欲しくないのでお延とセックスをしないのではなかろうな。
それはいかんぞ。
男らしく叱ったらよさそうなものだのに
外国人読者が漱石作品に低評価をつける際にポイントの一つとなっているのは、成人男子の親に対するすねかじりに対する批判である。「現在では」という意味合いと「自国では」という意味合いの両面から、そうした「成人男子の親に対するすねかじり」などと云うものが信じられないという批判がされているのを目にすることがある。
まあ尤もな理屈であろうと思う。しかも無職ではなく、一応はサラリーマンをしていて、月々親に仕送りをして貰っているというのはやはり当時としてもみっともないことではなかっただろうか。
この津田の「金のなさ」は、弟を学校にやれない宗助と対になるものであろう。恐らくは役所勤めらしき宗助は雨漏りのする家に住み、穴の開いた靴を履いている。津田にはそこまでの困窮ぶりが見られない代わりに、そもそも生活費を当然のように実家から手当てしてもらっている。同じ「金のなさ」でも意味合いが少し違う。
津田はわざと金に困っている、という言い方はどうか解らないが、お延も津田も二人とも見栄っ張りなので金に困っているのだと言っても良いと思う。金がないならないなりに我慢していればなんとかなるものだ。
金がないのに節約できない、これは夜中にラーメンを食べる程度の矛盾である。
口先の云い前
ここで「口先の云い前」の解釈は分かれている。こうしたところは是非とも註釈が必要だろう。ここは広辞苑の解釈が間違いで、「口実」が正しいのではなかろうか。
言い方だけの問題なら、「垣根の繕いだとか家賃の滞り」ではなく「入ってこないとか嵩んだ」が実は「見積もりより少し多かったとか三日待ってくれと言われている」ことなのだろうけれども、そうであればやはりそれが主原因ではないとはっきりした以上、言い方に関係なくこれは口実である。
[余談]
つまりこれまでの「研究」は全て洗い直しの必要があるということ。八十代の人はきついだろうな。死ぬ間際にこんなものが出来て。
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