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芥川龍之介の『或敵打の話』をどう読むか② 全然敵討ちできてない

 これは宇宙で初めて私が発見したことではありませんが、『或敵打の話』は全然敵討ちが出来ない話です。

 まずはそこが芥川らしい皮肉、逆説になります。

 これは自分一人でも、名乗りをかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分、津崎左近が助太刀覚えたか。」と呼びかけながら、刀を抜き放って飛びかかった。が、相手は編笠をかぶったまま、騒ぐ気色もなく左近を見て、「うろたえ者め。人違いをするな。」と叱りつけた。左近は思わず躊躇した。その途端に侍の手が刀の柄前にかかったと思うと、重ね厚の大刀が大袈裟に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。

(芥川龍之介『或敵討の話』)

 まずはこうして助太刀の一人、津崎左近が返り討ちに遭います。これは話としてよくできていて、そもそも加納平太郎は人間違いで闇討ちされているので、「うろたえ者め。人違いをするな」と言われて津崎左近は躊躇するわけです。瀬沼兵衛は自分の人間違いをうまく利用したわけです。

 これ、数馬のように無言で斬っていたらどうだったかと考えさせられるところです。

 そして肝心の加納求馬ですが、

 求馬は翌日から枕についた。が、何故なぜか敵の行方ゆくえが略わかった事は、一言も甚太夫には話さなかった。甚太夫は袖乞に出る合い間を見ては、求馬の看病にも心を尽した。ところがある日葺屋町の芝居小屋などを徘徊して、暮方宿へ帰って見ると、求馬は遺書を啣えたまま、もう火のはいった行燈の前に、刀を腹へ突き立てて、無残な最後を遂げていた。甚太夫はさすがに仰天しながら、ともかくもその遺書を開いて見た。遺書には敵の消息と自刃の仔細とが認めてあった。「私儀柔弱多病につき、敵打の本懐も遂げ難きやに存ぜられ候間……」――これがその仔細の全部であった。しかし血に染んだ遺書の中には、もう一通の書面が巻きこんであった。甚太夫はこの書面へ眼を通すと、おもむろに行燈をひき寄せて、燈心の火をそれへ移した。火はめらめらと紙を焼いて、甚太夫の苦い顔を照らした。
 書面は求馬が今年の春、楓と二世の約束をした起請文の一枚であった。

(芥川龍之介『或敵打の話』)

 自殺したらあかんやん、と思いますよね。まあ、重荷だったんでしょうね。敵討ちが。とにもかくにも主役がいなくなってしまいました。こうなるともうグダグダです。

 が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘ぎながら、「身ども今生の思い出には、兵衛の容態が承りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進ませると、病人の耳へ口をつけるようにして、「御安心めされい。兵衛殿の臨終は、今朝寅の上刻に、愚老確かに見届け申した。」と云った。甚太夫の顔には微笑が浮んだ。それと同時に窶れた頬へ、冷たく涙の痕が見えた。「兵衛――兵衛は冥加な奴でござる。」――甚太夫は口惜しそうに呟いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭を垂れた。そうしてついに空しくなった。……
 寛文十年陰暦十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上った。彼の振分の行李の中には、求馬左近甚太夫の三人の遺髪がはいっていた。

(芥川龍之介『或敵打の話』)

 結局甚太夫が病死して、敵討ちは果たせずに終わります。なんじゃこりゃという話です。全然敵討ちになっていないわけです。

 これだけだとただ賺しの話なのですが、芥川はそのまま終わりにしません。

 寛文十一年の正月、雲州松江祥光院の墓所には、四基の石塔が建てられた。施主は緊く秘したと見えて、誰も知っているものはなかった。が、その石塔が建った時、二人の僧形が紅梅の枝を提げて、朝早く祥光院の門をくぐった。
 その一人は城下に名高い、松木蘭袋に紛れなかった。もう一人の僧形は、見る影もなく病み耄けていたが、それでも凛々しい物ごしに、どこか武士らしい容子があった。二人は墓前に紅梅の枝を手向けた。それから新しい四基の石塔に順々に水を注いで行った。……
 後年黄檗慧林の会下に、当時の病み耄けた僧形とよく似寄った老衲子がいた。これも順鶴と云う僧名のほかは、何も素性の知れない人物であった。

(芥川龍之介『或敵打の話』)

 これが芥川の面白いところです。

 まず「四基の石塔」ですが「加納求馬」「津崎左近」「田岡甚太夫」はいいとしてもう一つは誰のものなんでしょうか。敵役の「瀬沼兵衛」? 流石に一緒にしないでしょう。

 で、施主は「江越喜三郎」でしょうか。

 武士らしい僧形、似寄った老衲子ともに「江越喜三郎」ですか?

 私はどうも瀬沼兵衛が生きているような気がします。

 兵衛殿の臨終は、今朝寅の上刻が怪しいと思います。午前四時って新聞配達じゃないんですから。早すぎませんかね。何時から付き添っていたんですかね。瀬沼兵衛が生きていて田岡甚太夫が先に死ねば、これが一応敵討ちですかね。まあ、討ってはいませんが討ったようなものです。

 これで「四基の石塔」が「三基の石塔」だったり、武士らしい僧形、似寄った老衲子ともに「江越喜三郎」だとすると割と平べったい話になってしまうわけです。松木蘭袋が嘘を言ったと書かないところが芥川のやり口です。そこが曖昧だから面白いのです。


[余談]

 へー。

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