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『三四郎』の謎について29 与次郎は何故美禰子に惚れないのか?

 ここにも書きましたが、これもあまり指摘されることがない要素です。

 原口もモデルとしての美禰子に魅力を感じているだけで、自分が美禰子を嫁にもらおうとは積極的に考えないようです。例えば浜辺美波さんとか、今田美桜とかが身近にいて、嫁に貰うかどうかは別として、客観的に評価できるなんて男がいるんですかね。大抵は目が眩むのではないでしょうか。

 どうも美禰子はその域にありませんよ。精々オセロのレベルです。そうです美禰子はオセロの中島知子で、よし子は松嶋尚美なのです。しかし浜辺美波さんも中島知子さんも五十年後の世界ではただの架空のお婆さんです。美禰子はいつまでもハイカラな美人あり得ます。

「それで、ぼくがなぜ里見さんの目を選んだかというとね。まあ話すから聞きたまえ。西洋画の女の顔を見ると、だれのかいた美人でも、きっと大きな目をしている。おかしいくらい大きな目ばかりだ。ところが日本では観音様をはじめとして、お多福たふく、能の面、もっとも著しいのは浮世絵にあらわれた美人、ことごとく細い。みんな象に似ている。なぜ東西で美の標準がこれほど違うかと思うと、ちょっと不思議だろう。ところがじつはなんでもない。西洋には目の大きいやつばかりいるから、大きい目のうちで、美的淘汰とうたが行なわれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーという男は、日本人の目は、あれでどうしてあけるだろうなんてひやかしている。――そら、そういう国柄だから、どうしたって材料の少ない大きな目に対する審美眼が発達しようがない。そこで選択の自由のきく細い目のうちで、理想ができてしまったのが、歌麿になったり、祐信になったりして珍重がられている。しかしいくら日本的でも、西洋画には、ああ細いのは盲目をかいたようでみっともなくっていけない。といって、ラファエルの聖母のようなのは、てんでありゃしないし、あったところが日本人とは言われないから、そこで里見さんを煩わすことになったのさ。里見さんもう少しですよ」(夏目漱石『三四郎』) 

 この原口の説明では里見美禰子の目が大きいのか細いのか判然としませんね。美禰子の顔はこのように説明されます。

 二重瞼の切長のおちついた恰好である。目立って黒い眉毛の下に生きている。同時にきれいな歯があらわれた。この歯とこの顔色とは三四郎にとって忘るべからざる対照であった。
 きょうは白いものを薄く塗っている。けれども本来の地を隠すほどに無趣味ではなかった。こまやかな肉が、ほどよく色づいて、強い日光にめげないように見える上を、きわめて薄く粉が吹いている。てらてら照る顔ではない。
 肉は頬といわず顎といわずきちりと締まっている。骨の上に余ったものはたんとないくらいである。それでいて、顔全体が柔かい。肉が柔かいのではない骨そのものが柔かいように思われる。奥行きの長い感じを起こさせる顔である。(夏目漱石『三四郎』)

 この話者は比較的三四郎の顔面に張り付いているでしょうか。里見美禰子は象や鯨の系譜ではないようです。かなり褒められています。里見美禰子はやはり「美人」なのではないでしょうか。作中「二重瞼」の文字は八回登場し、全てが里見美禰子の描写に使われます。

 目の大きな、鼻の細い、唇くちびるの薄い、鉢が開いたと思うくらいに、額が広くって顎がこけた女であった。(夏目漱石『三四郎』)

 一方野々宮よし子の顔は目が大きいだけで、後は貧相に描写されています。汽車の女も、

 口に締まりがある。目がはっきりしている。額がお光さんのようにだだっ広くない。なんとなくいい心持ちにできあがっている。(夏目漱石『三四郎』)

 ……と描写されていますので、小川三四郎の好みとしては目が大きいことは共通していて額・鉢に関しては揺れがありますね。

 佐々木与次郎は、

「きょうは大久保まで行ってみたが、やっぱりない。――大久保といえば、ついでに宗八さんの所に寄って、よし子さんに会ってきた。かわいそうにまだ色光沢が悪い。――辣薑性の美人――おっかさんが君によろしく言ってくれってことだ。しかしその後はあの辺も穏やかなようだ。轢死もあれぎりないそうだ」(夏目漱石『三四郎』)

 ……と客観的に捉えます。この「辣薑性の美人」とは

 ……使用例が少なすぎるので簡単に決めつけてはどうかと思うのですが、いわば色白の西洋人に通ずる美しさということなのでしょうか。佐々木与次郎は小川三四郎に対して野々宮よし子を推します。ということは佐々木与次郎は野々宮よし子のことも眼中にないようです。ただ目が大きいことから原口には絵のモデルとして狙われています。

 佐々木にとってはどちらかと言えば野々宮よし子の方が美人に思えていたのかもしれません。

 三四郎は板の間にかけてある三越呉服店の看板を見た。きれいな女がかいてある。その女の顔がどこか美禰子に似ている。よく見ると目つきが違っている。歯並がわからない。美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。与次郎の説によると、あの女は反っ歯の気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。……(夏目漱石『三四郎』)

 反っ歯というのは出っ歯の事ですね。佐々木与次郎と小川三四郎の間で見解が分かれていますね。事実はどうなのでしょうか。経歴から考えると、里見美禰子を見た回数では佐々木与次郎の方が小川三四郎より多い筈です。とすれば何かの機会に三四郎の見たことのない角度から美禰子の口元を見たことがあるかもしれません。三四郎に対して美禰子は常に言葉少なに短い会話をしていますが、女同士ではそうでもないかもしれません。ついつい唇がめくれて前歯がむき出しになる事もあったかもしれません。あるいは今の美禰子が仕上がる前の、粗野な美禰子を知っている可能性もあります。

 大体人間の顔など曖昧なもので、パンストを被っただけで簡単に不細工にできますよね。風が吹いても変わります。美人でも変顔で出っ歯の真似ができますよね。

 そう考えていくと「反っ歯」の件に関しては事実としては佐々木与次郎の意見が正しい可能性が高く、少なくとも佐々木与次郎は反っ歯の里見美禰子を見たことがあると考えてよいでしょう。

 するとどうなりますか。

 まず里見美禰子は色黒(狐色)ですからけして万人受けする美人ではないわけですよね。アグネス・ラムの登場という画期的な事件も、単なる偶然で、アグネス・ラムの資質だけでブームが起きたわけではないと思います。またアグネス・ラムを美人だと思わない人も一定程度存在する訳です。だから美禰子に惚れないのは可笑しいと云う訳ではありません。たまたま九州出身の野々宮宗八と小川三四郎の好みが色黒の女で、里見美禰子が色黒だったからマッチしたというだけだとも言えます。

 つまり佐々木与次郎が里見美禰子に惚れないのは不思議でもなんでもないことであり、そもそも何故佐々木与次郎が里見美禰子に惚れないのか、という疑問も謎も存在しないのだ、ということになりませんか。

 逆にそのロジックを取れば、佐々木与次郎が真っ当で、むしろ野々宮宗八と小川三四郎の好みが変わっているだけだという見方もできます。

 そしてこのロジックから、ある事実が浮かんできませんか。

 向こうから車がかけて来た。黒い帽子をかぶって、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢のいい男が乗っている。この車が三四郎の目にはいった時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見つめているらしく思われた。二、三間先へ来ると、車を急にとめた。前掛けを器用にはねのけて、蹴込けこみから飛び降りたところを見ると、背のすらりと高い細面のりっぱな人であった。髪をきれいにすっている。それでいて、まったく男らしい
「今まで待っていたけれども、あんまりおそいから迎えに来た」と美禰子のまん前に立った。見おろして笑っている。(夏目漱石『三四郎』)

 このりっぱな紳士もだけのグループに入ることになりませんか?

 何しろ情報が少なくてその正体がよく解らない里見美禰子の結婚相手ですが、

①野々宮よし子にとっては知らない人

②里見恭助の友人

 ……ということだけは解っています。そして野々宮よし子と写真と身上書を交換していた筈なのにたちまち里見美禰子と結婚してしまうので、余程里見美禰子がタイプだったのかと思われます。

 つまり銀行員かどうかは分かりませんが、彼もまた江戸に攻め上ってきた九州人ということにはならないでしょうか?


[余談]

 この記事でも書きましたが、『三四郎』って坊主が多すぎませんか。どうもわざとやっていますよね。

 野々宮さんと広田先生のあいだに縞しまの羽織を着た批評家がすわった。向こうには庄司という博士が座に着いた。これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。フロックを着た品格のある男であった。髪を普通の倍以上長くしている。それが電燈の光で、黒く渦をまいて見える。広田先生の坊主頭と比べるとだいぶ相違がある。(夏目漱石『三四郎』)

 こう書かれてもほかの人はたいてい坊主なので、普通がどのくらいなのか分かりません。















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