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芥川龍之介の『奇怪な再会』をどう読むか⑦ 何の仕返し?

 よしそこまでは解った。

 解ったけれども今一つ釈然としない。

 まだ「読んだ」とは言い難い。それは、

①お蓮は日本に売られてきて買い手である牧野を憎んでいたのか?
②金さんは何故ずっとお蓮の気持ちの中に留まっていたのか?
③果たして婆さんからの伝聞、Kの話だけで話が構成可能なのか?
④「私」≒書き手≒芥川龍之介でいいのか?
⑤東京が森になるという幻想の意味は何か?
⑥支那服の下着はどうなっているのか?
⑦何故お蓮は日本語に堪能なのか?
⑧禁句である牧野の暗打ちとは何のことか?
⑨一枝さんはどうして止めるの?
⑩金さんは何故弥勒寺橋に来ることになるのか?
⑪牧野は何故風俗画報を拡げているのか?
⑫月だか太陽だか判然しない、妙に赤光りのする球とは何なのか?
⑬犬の首輪は何故赤なのか?
⑭膃肭臍の缶詰は何故赤いのか?
⑮豆屋の日傘は何故赤いのか?
⑯鏡の中の犬の屍骸の黒かるべき鼻の先が、赭い色に変ったのは何故か?
⑰七草の夜とは「七草粥の日」のことか「七草雑炊の日」のことか?
⑱清国人である筈のお蓮が何故漢民族の四大聖人を祭る身上判断に占ってもらうことにしたのか?
⑲何故お蓮の惚れた男の名前は「金」なのか?
⑳お蓮は満州文字を書いたのか?

 ……など解らないことがまだまだたくさんあるからだ。例えば「玄象道人」のくだりはお蓮本人、または「玄象道人」から直接話を聞かない限り再構成できない。つまり、

③果たして婆さんからの伝聞、Kの話だけで話が構成可能なのか?

 という問題に関しては甚だ怪しいことになる。しかしこれは設定が緩いところで、「そんな話も婆さんに話していた」と考えるよりないように思う。

 ところで、

①お蓮は日本に売られてきて買い手である牧野を憎んでいたのか?

 この問題だけはすっきりしないと先に進めない感じがする。何しろ牧野はお蓮から「殺したって好いじゃないか?」と言われる程度には憎まれている。だからまあ清国人が諦めが良いというのがふりで、「見えない鮮血」という落ちがあるのだとして、その動機の部分、恨みの根拠のようなものが今一つ明確ではない。

 継母ともめて身を売るほどに落ちぶれた……そこまでの恨みを牧野が一手に引き受けなくてはならない理屈はなかろう。もしも牧野がただの客であれば、そこには罪はないわけだ。

 では強引に日本に攫ったのかと云えばそこまでの乱暴なこともしていないように思える。なんなら二十四時間監視されているわけではないのだから、逃げ出す事ならいつでもできたはずだ。なのに何故、第十五章では、こうして明確な殺意を持ち出すのであろうか。

 お蓮が床を抜け出したのは、その夜の三時過ぎだった。彼女は二階の寝間ねまを後に、そっと暗い梯子を下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽斗から、剃刀の箱を取り出した。
牧野め。牧野の畜生め。
 お蓮はそう呟つぶやきながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀の匂いが、磨とぎ澄ました鋼はがねの匂いが、かすかに彼女の鼻を打った。
 いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳な継母との争いから、荒ままに任せた野性だった。白粉が地肌じはだを隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。………
牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、――」
 お蓮は派手な長襦袢の袖に、一挺の剃刀を蔽ったなり、鏡台の前に立ち上った。

(芥川龍之介『奇怪な再会』)

 野生は勝手に持ちなさいよ。しかし牧野に「鬼」と呼ばれるまでの非道なふるまいがあったのだろうか?

 かくいう私にも一年半くらい前、ああこの人が今殺されたら自分が犯人だと疑われかねないんだろうなというくらい酷い仕打ちを受けたことがある。まあ、お蓮なら殺していたんじゃないかと思うような感じのことだ。しかし人生は他人を恨んでいる暇があるほど長くはないので、勿論彼のことは激しく憎み、軽蔑はしているけれども、復讐してやろうというようなことは考えなかった。他にやることが山ほどある。これはつまり芥川龍之介の書いているのも、そうした気質とか価値観のことなのかなと考えてみて、どうもそれだけではおさまりが悪いような感じがしてしまうのだ。

 そして、

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