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芥川龍之介の『風変りな作品に就いて』をどう読むか① そのまま受け取るわけにはいかない
この短い話には二つの大きな引っ掛かりどころがある。
「奉教人の死」の方は、其宗徒の手になつた当時の口語訳平家物語にならつたものであり、「きりしとほろ上人伝」の方は、伊曾保物語に倣つたものである。倣つたといつても、原文のやうに甘うまくは書けなかつた。あの簡古素朴な気持が出なかつた。
「奉教人の死」の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である。「きりしとほろ上人伝」の方は、セント・クリストフの伝記を材料に取入れて作つたものである。
書き上げてから、読み返して見て、出来不出来から云へば、「きりしとほろ上人伝」の方が、いいと思ふ。
この「きりしとほろ上人伝」の方が、いいと思ふ、という芥川龍之介自身の評価には枝葉がない。どうした理由で良いのか明らかではない。
この『きりしとほろ上人伝』の良さと云うものは今一つ明確ではない。シンプルに結末が弱い。ポアされる理由が明確でない。落ちとしては『奉教人の死』の方が切れている。『きりしとほろ上人伝』にはやられた感がない。
つまり昨日書いたように、
一旦気が付くと、「はっそういうことか」と驚くようなところがない。雛人形はバービー人形のように遊べないというところに気が付かないと『雛』はぼんやりした作品になる。『きりしとほろ上人伝』には「はっそういうことか」と驚くような仕掛けがないとは私の感想だが、実際『きりしとほろ上人伝』の落ちを見極めた論文は見当たらない。
そしてもう一つ、
将来どんな作品を出すかといふ事に対しては、恐らく、誰でも確かな答へを与へることは出来ないだらうと思ふ。小説などといふものは、他の事業とは違つて、プログラムを作つて、取りかかる訣にはゆかない。併し、僕は今後、ますます自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、本格小説、私小説、歴史小説、花柳小説、俳句、詩、和歌等、等と、その外ほか知つてるものを教へてくれれば、なんでもかきたいと思つてゐる。
壺や皿や古画等などを愛玩して時間が余れば、昔の文学者や画家の評論も試みたいし、盛んに他の人と論戦もやつて見たいと思つてゐる。
斯くの如く、僕の前途は遙かに渺茫たるものであり、大いに将来有望である。
これを大正七年くらいに書いていれば、そのままストレートに受け止められたかもしれないが、これを書いたのは大正十四年の十二月、芥川は既に自殺することを決めていた筈なのだ。
では「花柳小説」とまで書いたのはやけくそかと思えば、全体としてはそう突飛でもない。むしろ前途有望である筈の芥川の死の方がやけくそに思えてしまう。
ところで「花柳小説」はさておくとして、ここで「自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、本格小説」を書いてみたいと書いていること自体には注目すべきではなかろうか。芥川自身には「特別に取扱はなくてはならない小説があるとも思へない」のであり、風変わりな小説は書いていても、本格小説を書いたという自負はないのだ。
この本格小説、
ほんかく‐しょうせつ【本格小説】‥セウ‥ (大正末年、中村武羅夫の造語)作者の身辺に材を取った心境小説に対し、社会的現実を客観的に描くという近代小説の本来の資格をそなえている小説。
というもので「本格小説」という言葉の呪縛に田山花袋ほか多くの作家が苦しめられたのに対して、芥川と谷崎は超然として自分を貫いたようなところがありはしないかと私は考えていた。
さらに言えば夏目漱石の死後、心境小説も本格小説もないだろうとも思う。中村武羅夫の定義はさておき、文字通りの本格小説とは一連の夏目漱石作品であると考えている。
夏目先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は過去において、十二分に仕事をされた人である。が、先生の逝去ほど惜しいものはない。先生は、このごろある転機の上に立っていられたようだから。すべての偉大な人のように、五十歳を期として、さらに大踏歩を進められようとしていたから。
芥川龍之介が今更本格小説やら私小説を書く必要はまるでないのだ。目指すべきは漱石の大踏歩なのだ。「そうして、ゆっくり腰をすえて、自分の力の許す範囲で、少しは大きなものにぶつかりたい」と書いたのが大正五年。ここには嘘はなかろう。
しかし『風変りな作品に就いて』はどうだ。
これは十二月の何日の作なのかは不明ながら、漱石の命日に死のうとした芥川のアリバイ作りのような話になっていないだろうか。
[余談]
しかし案外漱石が読めない人は多く、萩原朔太郎も芥川と谷崎しか認めていない。
島崎藤村とか色々いるのにね。
萩原朔太郎は「小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので」と書いているので、確かに芥川作品が一番向いているかもしれない。
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