芥川龍之介の『風変りな作品に就いて』をどう読むか① そのまま受け取るわけにはいかない
この短い話には二つの大きな引っ掛かりどころがある。
この「きりしとほろ上人伝」の方が、いいと思ふ、という芥川龍之介自身の評価には枝葉がない。どうした理由で良いのか明らかではない。
この『きりしとほろ上人伝』の良さと云うものは今一つ明確ではない。シンプルに結末が弱い。ポアされる理由が明確でない。落ちとしては『奉教人の死』の方が切れている。『きりしとほろ上人伝』にはやられた感がない。
つまり昨日書いたように、
一旦気が付くと、「はっそういうことか」と驚くようなところがない。雛人形はバービー人形のように遊べないというところに気が付かないと『雛』はぼんやりした作品になる。『きりしとほろ上人伝』には「はっそういうことか」と驚くような仕掛けがないとは私の感想だが、実際『きりしとほろ上人伝』の落ちを見極めた論文は見当たらない。
そしてもう一つ、
これを大正七年くらいに書いていれば、そのままストレートに受け止められたかもしれないが、これを書いたのは大正十四年の十二月、芥川は既に自殺することを決めていた筈なのだ。
では「花柳小説」とまで書いたのはやけくそかと思えば、全体としてはそう突飛でもない。むしろ前途有望である筈の芥川の死の方がやけくそに思えてしまう。
ところで「花柳小説」はさておくとして、ここで「自分の博学ぶりを、或は才人ぶりを充分に発揮して、本格小説」を書いてみたいと書いていること自体には注目すべきではなかろうか。芥川自身には「特別に取扱はなくてはならない小説があるとも思へない」のであり、風変わりな小説は書いていても、本格小説を書いたという自負はないのだ。
この本格小説、
というもので「本格小説」という言葉の呪縛に田山花袋ほか多くの作家が苦しめられたのに対して、芥川と谷崎は超然として自分を貫いたようなところがありはしないかと私は考えていた。
さらに言えば夏目漱石の死後、心境小説も本格小説もないだろうとも思う。中村武羅夫の定義はさておき、文字通りの本格小説とは一連の夏目漱石作品であると考えている。
芥川龍之介が今更本格小説やら私小説を書く必要はまるでないのだ。目指すべきは漱石の大踏歩なのだ。「そうして、ゆっくり腰をすえて、自分の力の許す範囲で、少しは大きなものにぶつかりたい」と書いたのが大正五年。ここには嘘はなかろう。
しかし『風変りな作品に就いて』はどうだ。
これは十二月の何日の作なのかは不明ながら、漱石の命日に死のうとした芥川のアリバイ作りのような話になっていないだろうか。
[余談]
しかし案外漱石が読めない人は多く、萩原朔太郎も芥川と谷崎しか認めていない。
島崎藤村とか色々いるのにね。
萩原朔太郎は「小説といふものはだらだらして、くだらないことを細々と書き立てるので」と書いているので、確かに芥川作品が一番向いているかもしれない。
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