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三島由紀夫の『美しい星』をどう読むか⑤ 思い込みが激し過ぎる

 どうやら三島由紀夫はまだタコの化け物のような火星人を登場させる気はないらしい。(大杉重一郎は火星人だが、辛うじて人間の姿で踏みとどまる。)その代わり大杉家とは真逆の空飛ぶ円盤目撃者を登場させる。

 羽黒真澄、四十五歳の大学助教授、専門は法制史。元大学生の栗田。床屋の曽根。それぞれみなこの世界を恨んでいる。

 人間どもが醜いのは、人間どもが決してその前頭葉から花を咲かすことのないのは、剪定をやらないからだ、と彼は考へてゐた。若いうちに手足の指をへし折つてしまへばいいのだ。あの大学の醜い薄ぼけた学生たち……。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

  このいささか乱暴な言いがかりは、美しい詩に転ずる。

 ——羽黒は確信してゐた。この世の形態はみんないつはりであり、滅亡でさへ形態をもち、その形態にあざむかれてゐると。
 実際、人類の滅亡を惹起するのに、彼は力を用ひる必要があるだらうか。今しがた彼の指が、かすかに触れるばかりで崩壊した薔薇のやうに、人間の世界も漬え去るのではなからうか。いや、すでにそれは死に絶え、ただ形態だけを保つてゐるのではなからうか。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 いささか理窟の足りないところを詩で補うのは三島由紀夫の常套手段だ。三島由紀夫は常に詩を恐れてはいない。こうした際どい言葉の連なりは一つ間違えばたちまち戯言に落ちてしまうが、三島は言葉が意味を断ち切るぎりぎりのあわいをひらひらと揺蕩う。詩を恐れていては出来ないことだ。そのそして詩は羽黒真澄という安っぽい僻み屋を哲学者に変える。

 三人は去年の早春に東京の有名な俳人と吟行に行く約束をして待ちぼうけを喰らった同士だ。そして二機の円盤を見る。

 円盤や泉ヶ岳の雪の屑

 こんな俳句も飛び出す。これで二句目だ。

 羽黒はこんな素っ頓狂な、三島に言わせれば「野放図な」観念で二人を支配しようとする。

「わからんかね。われわれは白鳥座六十一番星のあたりの未知の惑星から来たんだよ。さつきの円盤がそれを証明してゐる。われわれは幸か不幸か人間ではなかつたんだ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 こんな乱暴な理屈で誰が騙されようかと思うが、……考えてもみよう、戦前の日本人の多くが天皇は神だと信じ込まされていた。完全に信じてはいないにしてもそれがどこにあるのか誰も知らない高天原という謎の場所から天下った天孫だと言わねばならなかった。実際に天皇にどのような帝王学がなされていたのかについては不明だが、このくらいの屁理屈でなければ自らを神聖にはできまい。

 三島はこの台詞の前に、「状況」について説明している。

 羽黒はこのとき、心が心を、意志が他人の意志を支配するのに、何らの力を要せず、ただ一個の野放図な観念が見つかればそれだけで足りる、稀な瞬間にゐたのである。

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 つまりロジックが人を納得させているわけではないのだ。そういう状況にあったというだけの事なのだ。同じことはオウム真理教内部でも、戦前の日本でもありえただろう。

「さうしてわれわれは地球へやって来たんですね。……でも何のために?」
 と栗田が訊いた。羽黒は自明の返事をした。
「人間を滅ぼすために」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 実際電車でこの手の人を見かけたことはある。酔っぱらいでもなさそうで、ロングコートの変なコスプレで、「貴様らなど消すことはたやすいわ、ガハハハ」みたいなことを言っていた。それにしても単独行動だった。

 オウム真理教にしても最初はありふれたヨガ教室だったはずだ。ところがいつだったか麻原正晃が結跏趺坐のまま浮き上がっているかのような写真を表紙にした本が売りに出され、オカルト雑誌『ムー』にまずは広告が出た。そしてその後特集が組まれたりしたんじゃなかったかと思う。つまりそこにはメディアの力というものがあったわけだ。

 それに比べると羽黒の言葉に釣られてしまう栗田と曽根は簡単すぎると思ってしまう。
 と、思ったら件の俳人が二日後新幹線の中で脳卒中で亡くなり、そのことで三人は確信してしまう。

 はい。認知バイアス。

 人は単なる偶然に意味を求めてしまう。つまり空飛ぶ円盤目撃と俳人の急死には本来何の関係もないが、そこに意味を見つけてしまう。転校生と朝ぶつかり、クラスメイトになると恋に落ちてしまう。しかし実際は茶柱が立ったっていいことは起きない。

 三人は大杉家とは真逆の方向に向かうが、一年は無為に過ごした。

「もうぢき戦争が起こるだらう」
 とそのとき羽黒は言った。
 しかしそれから半年たつた今日、羽黒は失望をこめて、同じ言葉を繰り返さねばならなかつた。
「もうぢき戦争が起こるだらう。いづれにしろ、それはおこらなくちやならんのだ」

(『美しい星』『決定版三島由紀夫全集第十巻』新潮社2004年)

 柄谷行人が『〈戦前〉の思考』という本を出版したのが1994年。贋予言者たちは常に未来に起こるカタストロフィーを言い続けていれば用が足りる。平時はいつでも戦前である。それにしてもこんな解りやすいはったりが通用していた平和な時代があったのだなと、いつか懐かしく思えるのだろうか。私はこの人の根本的な山師根性が気になって仕方ない。

 ところでこの『美しい星』が書かれた昭和三十六年当時、世界は次の世界大戦に供えて動いたことは間違いないし、そのために水爆実験も行われていたのは確かなことだ。そのまま六十年以上どの国も核爆弾を使用しないなどというお花畑的夢想をするものは殆ど存在しなかったのではなかろうか。戦争は殆ど目の前にあり、再び日本が戦争に巻き込まれることは確実に思えたのではなかろうか。
 キューバ危機が昭和三十七年なのだ。この時まさに大杉家の提案通りに(?)フルシチョフとケネディが話し合い、第三次世界大戦の危機が回避され、ホットラインが出来た。
 その直前に書かれた『美しい星』における戦前の思考こそが本物で、柄谷行人のものははったりに過ぎない。

 しかし羽黒たちの期待はやはりはったりに過ぎない。
 このはったりはおまじないで乗り越えられる。三人は近くの藤崎デパートに行って、そのぞれの考案で、地球を破壊する道具を百円以下で買う。

 羽黒は螺子まわしを、

 栗田は硫酸を、

 曽根は胡桃割りを買った。

 曽根は胡桃割りで地球に見立てたピンポン玉を割り、

 栗田は塩酸を木の枝や隈笹へぶちまけて美しい星の面をめちゃくちゃにした。

 そして羽黒は螺子回しの先端を遠景に差し向けて、それを回し人間の社会の構造の歯車が弛み、外れ、やがて全機構が崩れて息絶えることを夢想する。

 これは御まじないであり、そしてまるで詩だ。詩人でなくてはこんなことはできない。そうだ、そもそも彼らは吟行にいこうとしていたのではなかったか。彼等には三種の神器という詩も受け入れられるのではなかろうか。あんなものは詩に過ぎないのに。

 そんな彼らはまた俳句を詠むのか。

 それはまだ誰も知らない。

 何故ならまだ第六章を読んでいないからだ。


 今まさにウクライナに加担して戦争を行っている日本が、もう戦前ではないと気が付くのはいつのことだろう。ウクライナが負ければその莫大な戦費は連帯保証した日本の国民が肩代わりさせられる仕組みだ。われわれはいつの間にかこの戦争の当事者にされてしまっている。

 もう逃げ道はない。


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