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『三四郎』の謎について28 美禰子は何故金を持っているのか?

 これもこれまで殆ど言われてこなかった話です。

 近代文学1.0において、やたらと「高等遊民」の代表とされる『それから』の代助ですが、『それから』の中で代助が「高等遊民」を自称した事実はなく実は「上等人種と自分を考えているだけ」なんです。こうした事実は事実としてきちんと整理していかなくてはならないと思います。

 すごくシンプルに言えば、柄谷行人なんか読むのを止めて、ちゃんとしようよ、ということです。

 むしろ、

「それから?」
「それから、あなたの肖像をかくとか言っていました。本当ですか」
「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。(夏目漱石『三四郎』)

 ……と「高等モデル」を自称した里見美禰子こそ「高等遊民」の原型と考えても良いかもしれません。そんなことを云うと、いやいや女はそもそも働かなくてよい時代だから、そもそも遊民にはなれまいと(女性差別主義者から)叱られるかもしれませんが、美禰子って何だか遊んでませんか。

 広田の所に時々英語を習いに来て、引っ越しも手伝うというほかは、何をしているのかよく解りません。バイオリンを弾いています。だから原口からは器用だと言われるのでしょう。よし子は学校に行っています。美禰子は何をしてお金を稼いでいるのでしょうか。両親はいないようです。法学士の兄からお小遣いを貰っている、というだけであれば、これはどうでしょう。

「どこへいらっしゃるの」
「あなたはどこへ行くんです」
 二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。
「いっしょにいらっしゃい」
 二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、
「お願い」と言った。
「なんですか」
「これでお金を取ってちょうだい」
 三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座預金通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。
「三十円」と女が金高を言った。あたかも毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要の金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。(夏目漱石『三四郎』)

 美禰子は自分名義の銀行口座を持っています。三十円が全財産ではありませんね。これは当時普通の事なのでしょうか。しかもこうも簡単に三十円を三四郎にくれてやるのはどうしたことでしょう。

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。(夏目漱石『三四郎』)

 ……と云い、

 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
 三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。
「お金は……」
「金なんぞ……」(夏目漱石『三四郎』)

 ……とも云うので相当余裕があります。この感覚はどうなんでしょう。定期収入がある人の資産と定期収入のない人の資産では少し意味合いが変わると思うんですよね。資産が三万円あり、定期収入が三十円ある人と、資産が三十万円ある人で定期収入のない人の三十円の貸付が同じくらいなんじゃないでしょうか。

 働いていないでそれでも人にお金を貸せるというのは、相当に余裕がある人です。

 そう気が付いてみると里見恭助もはなはだ怪しくなります。里見恭助は法学士とされています。しかし、……法学士というだけでそれで勝手にお金が入ってくるわけもありませんが、どこに務めているとも弁護士をしているとも書かれません。ただ、謡をやり、楽器を習おうとしているというだけで働いている気配がありません。

 つまり美禰子だけではなく恭助も働かなくても暮らせる分限者なのではないでしょうか。つまり親の財産などを分割相続していて、里見恭助も里見美禰子も働かないで遊んでいる遊民だったんじゃないでしょうか。

 つまり自称するかどうかは別として代助が実質的に高等遊民だ、と言い張るのならば、明示的ですらありませんがその手前で近代文学1.0の大好物の高等遊民が『三四郎』に登場していたことに、近代文学1.0は気が付いていなかったことにならないでしょうか。

 もしそうであれば、

 風呂なしの借家に住む高等学校教師の広田というワーキング・プアと高等遊民の里見恭助の対比が描かれた作品として、『三四郎』はもっと近代文学1.0でいじくりまわされても良かったですね。そんな話が好きですからね、近代文学1.0の人は。

 残念なことに近代文学1.0はもう終焉してしまったそうですから、いまさらそんなことを指摘されても困るでしょうが。


[余談]

 「馬の脚」と言えば芥川の小説が思い浮かぶ。この「馬の脚」には大根役者という意味がある。確かに大根芝居だ。それから、

八日目になって馬番が王の所へやつて来て、お気入りの馬の脚が身体の中にめり込んでしまつたニとを告げた。王は大そう心を痛め、又バルクの町の人も皆びつくりした。

彼は王が四つの約束をするならは馬の脚を元の様にしやうと述べた。四つの約束といふのは、第一は、王が彼の教へを後けること。

大人の天使長の下に、無数の天使ミ九八王はその言に従つたのでゾロアスターは祈祷をして馬の脚を一本づゝ引き出して元通りにシた。今ウゾロアスターの名声はその極に達した。(『印度拝火教』Times of India社 編||亜細亜民族調査会 訳亜細亜民族調査会 1942年)

 ……といった逸話のニュアンスが影響していないだろうか。まあ、深読みには注意しなくてはならないが。














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